第百十八話 通じた心、だからこそ。
街路樹の下、
宵の口の月明りで、香織の頬を伝った雫が光った。
「だから、避けられているとつらいんです。何かわたしが気に障るようなことをしたなら、あやまりたいです。至らなかったことがあるなら、言ってください。これからは今までのようにお会いできなくなるのに、こんなふうによそよそしいままでは、わたし……」
香織の声が苦しそうににじんで、途切れる。
(香織……)
耀藍は、腹の底から熱いものがわきあがってくるのを感じていた。
それは怒りだ。
己に対する、怒り。
(オレは、愚かだ)
愛する女人をこんなふうに悲しませるなんて。
こんなふうに悲しませて、想いを伝えさせるなんて。
話を続けるために嗚咽を押さえようと、深呼吸をしている。
その姿が、いじらしくて。
香織のすべてが、愛しくて。
「香織!」
気が付けば、耀藍は香織をしっかりと胸に抱きしめていた。
何も知らせず、もう触れもせず、このまま王城へ行こうと思っていた。
(だがそれは、まちがいだ)
何もかも伝えてなくてはならない。
そして、あやまるべきは自分なのだ。自分の弱さが、香織を苦しめることになってしまったのだから。
耀藍は香織を抱きしめ、艶やかな髪や華奢な背にゆっくりと
――一方、香織は耀藍に抱きしめられ、頭が真っ白になってしまった。
(耀藍様、どうして……)
この前の夜より、耀藍の広い胸や腕からは熱がほとばしり、それが香織を酔わせていく。
大きな熱い手が香織の髪や背を愛おしんでくれているのがわかる。
(耀藍様……!)
香織も思い切って耀藍の背に手を回した。
耀藍は香織の肩に顔を埋めるようにして、一層強く香織を抱きしめる。
「すまない、
耳元で
「悲しませたくなくて、何も言わずにいたのだ。オレが愚かであった」
耀藍がそっと香織の頬に手をあてた。そのまま涙をぬぐい、そっと顎を上向かせた。
「すまない、香織」
香織はかすかに首をふる。
「あやまらないでください。わたしこそ、耀藍様に何か――」
その言葉を、耀藍の唇がふさいだ。
温かでやわらかい感触が優しく香織の唇をゆっくりと
驚いた香織が瞬きする間に、唇はそっと離れた。
「ちがうのだ。香織は何もわるくない」
「耀藍様……」
「あやまらねばならぬのは、オレなのだ」
「そんなことは」
耀藍は静かに首をふり、香織の目をじっと見つめた。
「オレは、香織を愛している」
――聞き間違いだと思った。
耀藍の甘やかな言葉は全身をかけめぐり、媚薬のように意識をとろけさせていく。
(わたし、耳がおかしくなったの……?)
しかし耀藍はもう一度、はっきりと言った。
「香織を愛しているのだ」
耀藍の手が、優しく香織の頬をなでる。だが。
(耀藍様……?)
端麗な顔に悲しげな影が差しているのは、なぜなのか。
「だから言わずにいた。オレの気持ちも、この身の運命も」
「運命……?」
「オレは明日、蔡術師として王城へ入る。その後は王へ仕えるため、王城を出ることはない。生涯を、王城で過ごす」
耀藍の言葉を頭の中で反芻した香織の目が、大きく見開かれた。
「そ、それはっ……もう、お会いできないということですかっ?」
「そういうことだ」
耀藍は苦しそうに言った。
「だから何も言わずに行こうとした。だが、香織の気持ちを聞いて、オレは後悔している。オレがもっと早くに勇気を出し、気持ちを伝えておくべきだったと。与えられた期限は変わらぬが、それでも……伝えて、もっと一緒にいたかったと」
――香織は、無意識に言葉を発していた。
「い、いや……」
耀藍の言葉を聞いて呆然自失になっているこの状況で、何も言うべきことが思いつかないというのに。
口をついて、出てきたのは。
「いや……」
一気に視界がぼやけ、あふれる。
「いやですっ、もう耀藍様にお会いできないなんてっ」
「香織……」
「いやっ!」
香織は子どものように叫んだ。
「すまぬ、すまぬ香織」
耀藍は苦しそうに繰り返す。その声は震えている。
「いやです!もう会えないなんて!そんなのわたし、わたし――」
「香織!」
力強い腕が再び香織を抱き寄せ、くちづけた。
まるで嵐のような、貪るようなくちづけだった。
息も苦しい中で耀藍の背を抱きしめ、香織はそのくちづけに応えた。
互いの想いを確かめ合うように、互いの呼吸をも奪い、溺れるようにくちづけた。
どれくらい、そうしていただろうか。
「――すまぬ」
そっと香織の耳を口に含み、耀藍がささやいた。
香織は大きな胸の中で微かにかぶりを振った。
「あやまらないでください。あやまらないで……」
耀藍は苦しんでいたのだ。
(気付いてあげればよかったのに……!)
耀藍は苦しい想いを抱え、一人苦しんでいたのだ。
嵐のような激しいくちづけから、耀藍の苦しみが痛いほど伝わってきた。
耀藍が、香織を愛してくれていること。
だからこそ、もう会えなくなると言えなかったこと。
けれど、想いがあふれてしまったこと。
きっと、王城へ入り王に仕えることすら、香織のためを思ってくれているであろうことも。
(わたしは……? わたしが耀藍様のためにできることは?)
前世、苦しい恋も失恋も人並みにしてきた香織だった。
そのたびに後悔が募ったが、学んだこともあった。
(好きだから、愛しているからこそ、わたしにしかできないことがある)
香織は一度下を向いて大きく息を吸い、耀藍を見上げた。
アクアマリンのような双眸が、愛おしげに香織を見ている。
(ああ、わたしはこんなにも美しい人に愛され、悲しませている……)
せめて、この愛する人が、運命に向かって進んでいけるように。
「
「
「耀藍様は、多くの人を救える
転生してきて、いろんなことがあった。
めまぐるしく素敵なことも多かったが、不慣れで不安なこともたくさんあった。
だが、耀藍が「愛している」と言ってくれたそのことで、そのすべてがよかったと思える。
自分が転生して生きて、よかったのだと思える。
その気持ちを抱いて、この先は歩んでいける。
(転生した強みが、役に立つわ)
見た目は16歳美少女、けれど心は人生の酸いも辛いも知り尽くす43歳主婦。
そんな香織だからこそ、耀藍に言ってあげられることがある。
「わたしも、耀藍様のこと愛してます。だから耀藍様、笑顔で王城へお入りになってください」
目からは涙が。だが、うまく微笑むことはできた。
「香織、そなたはなんという女人なのだ……」
「泣かないで、耀藍様」
香織はそっと、手拭で耀藍の涙をふいた。
「そのような姿を見せられたら、本当にオレはそなたをあきらめきれなくなるではないか……!」
「わたしも、あきらめきれません。だからずっと耀藍様のこと、心の中でお慕いしています」
香織は背伸びして、耀藍の顔をそっと引きよせ、くちづけた。
そして、すぐに耀藍の腕からすりぬけた。
「香織……!」
「耀藍様。だから、以前と同じように言ってください。『おやすみ。また明日』って」
耀藍は何か言いそうになる。
しかし手のひらをぐっと握りしめ、濡れる頬をぬぐいもせず、言った。
「…………
香織は微笑んだ。とめどなく涙はあふれる。だが、微笑んだ。
「はい、
そして香織は、華老師宅へと走った。
けっして振り返らずに。
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