第百十三話 さらば、大切な者たち



(まさか異世界でチーズフォンデュに出会えるなんて!)


 前世の好物のいきなりな出現に香織こうしょくは心おどる。

 小英しょうえい青嵐せいらんは夢中で食べている。香織も食べたいが、香織が手を出す隙がない。


(しょうがないか。こんなに幸せそうに食べているところを邪魔しちゃ悪いしね)

 うれしそうに食べている小英と青嵐の姿に、香織は心和んだ。


「この乾酪かんらくってやつ、美味い! 塩気があって、それがちょっと焦げた焼きおにぎりにすごくよく合う!」

 小英はすでに小さい焼きおにぎりを五個は食べている。

「俺も、乾酪をこんなふうの食べるのは初めてだな。この甘辛いカボチャとも意外に合うし」

「そうなのよ、カボチャの煮物とも実はよく合うのよね」


 前世、残りがちだったカボチャの煮物をチーズフォンデュに入れて食べるとあっという間になくなったことを思い出す。


(ふふ、子どもが好きな味って、どこの世界でも似ているんだな)


 耀藍の口にも合うだろうか、とふと思う。


「あ、あの、耀藍様もカボチャをチー……乾酪に絡めてみませんか」

 恥ずかしいのを我慢して顔を上げると、


「あれ? 耀藍様?」

 いつの間にか、耀藍はいなくなっていた。





 薬研やげんをごりごりと動かしていた華老師かせんんせいが手を止めた。


「おおフラフラ御曹司。しばらく顔を見ないと思うていたが」

「先日は、父に薬包をお届けくださってありがとうございます」

「む、おぬしがそのようにきちんと礼が言えるようになったとはな。宮仕えも悪いものでもないということじゃな」

「えっ?! なぜオレがもう出仕していることを知っているのだ」

 うろたえる耀藍をそよに、華老師は鼻をふんふんと動かした。


「いい匂いじゃのう。乾酪の火鍋じゃろう」

「わかるのか」

「昔、食べたことがある。山の民の伝統料理じゃのう。国境情勢が不安定な今、国境まで行かねば乾酪の火鍋ができるほどの量の乾酪は手に入らん」


 華老師が耀藍をのぞきこんだ。


「国境まで行ったのであろう? 王の御命令で」

 耀藍は頷いた。

「オレの入城はまだだが、一刻も早く国境の安全は保障されるべきだというのが亮賢……王の御意思でもあるが、オレもそう思ったから行った」

「うまくいったのか?」

「まだわからん。芭帝国とはこれから交渉だ。その前に正式な入城の儀を済ませようと思って帰ってきた。それと、乾酪火鍋をおそうざい食堂にどうだろうと思ってな」

「ほう、おそうざい食堂にのう」

「国境の状況が正常になれば、乾酪はたくさん流通できると思う。あれは、子どもから大人まで美味しく楽しめる、まさに香織が理想とする料理だろう」

「ふむ。香織のために帰ってきたか」

「そ、それはっ……」


 耀藍は真っ赤になって言葉に詰まった。

 そんな耀藍の様子を見て(うぶじゃのう……)と微笑みつつ、華老師は先日から少し気になっていたことを口にした。


「ところでおぬし、香織に言うたのか。術師は入城すれば、王城で暮らすことになるということを」


 耀藍は首を振る。華老師は大きく息を吐いた。


「どうせそんなことだろうと思うたわい」

「真実は知らせなくともよいのだ。香織は優しいから、オレがもうここへ来なくなると言えば、会えなくなると言えば、悲しんでくれるだろう。だがそれは無用の悲しみだ。オレはむやみに香織を悲しませたくない」

「おぬし、本当にそう思うておるのか。香織の気持ちを考えたことはないのか」

「香織の気持ちはつねに考えている」


 大真面目に言う端整な顔を見て、華老師は溜息を吐いた。


「香織の気持ちを考えれば、真実を知らせたほうがよいと思うがのう……」

「いいのだ、オレのことなどは。おそうざい食堂や吉兆楼の仕事や、香織がいなくてはならない場所や香織を必要とする人々のためにも、香織を沈んだ気持ちにさせるのはよくない。料理というのは、気持ちが現れるからな。せっかくの香織の料理に影が差してはいけない」


 耀藍は笑む。

 そんなふうに寂しそうに笑んだこの美しい青年を初めて見たので、華老師も何も言えなくなってしまった。


「華老師。香織を頼む」

 耀藍が真剣なまなざしで華老師を見た。

「じきに、香織の記憶がすべて戻るだろう。そうしたら、いろいろと辛いことがあるかもしれん。オレは傍にいてやれないが、もし何か役に立つなら、蔡家を頼ってくれていい。姉上にお願い申し上げておく」

「うむ……」


 耀藍は、華老師の手をそっと取った。


「華老師。貴方とは、また王城で会うことがあるかもしれないが、ひとまず言わせてくれ。これまで本当に世話になった。心から感謝している」

「まったく、よせよせ。柄にもないことを」


 華老師は笑った。どことなく目頭の熱いのをこらえているような笑いだ。


「王城の内はヒトの形をした妖もいよう。だが、そなたなら上手くやれるじゃろう。術師が誕生する朝廷は、時代の変わり目にあるという。しっかり王をお支えするのじゃぞ」

「うむ、もちろんだ。過労であまりに体調が悪くなりそうなら、華老師を王城へ呼ばせてもらうぞ。そのときまでどうか、達者でいてくれ」


 耀藍と華老師は笑い、互いに手を強く握り合った。


「おぬしも、達者でな」

「うむ。小英と青嵐にもよろしく伝えてくれ」

「なんじゃおぬし、小英と青嵐にも何も言うてないのか」

「む……オレは涙腺がゆるいのだ。そんな姿を小英と青嵐に見せたくないではないか」

「まったく、変なところで見栄っ張りというか意地っ張りというか」

「オレの最後のワガママだ、許してくれ」


 耀藍は踵を返し、裏門へ向かった。

 庭院から、小英と青嵐と香織の笑い声が聞こえてくる。


(――さらばだ)


 そして耀藍は、王城へ戻っていった。

 大切な者たちの未来を守るために。

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