第百十二話 初・乾酪火鍋


 卓子の上には土鍋が置いてあって、中には薄黄色のつややかでトロリとした液体がぐつぐつと煮立っている。


「ちーずふぉん……なんだって香織こうしょく?」

「な、なんでもない! 小英しょうえい、これどうしたの?」

「さっき耀藍ようらん様が来て、作ってくれたんだよ。味見しないかって」

「耀藍様が?」


 耀藍はそわそわとあらぬ方を見て香織と目を合わさないようにしている。

 その瞬間、香織もあの夜のことを思い出して耳まで熱くなった。


「香織? どうしたんだよ」

「え?! ううん、なんでもないよ! よ、耀藍様、これどうしたんですか?!」


 香織もまともに耀藍を見ることができず、土鍋をのぞきこみながら聞いた。


「う、うむ、これはだな、マニ族をはじめ、山の民に食べられている乾酪という食材を使った料理だ。乾酪火鍋、と命名したのだが」

 すると青嵐せいらんがああ、とうれしそうに頷いた。

「乾酪か! 俺も好きなんだ。たまに山の民が商いにきて、食べたことがある。でもこんなスープみたいに溶けた状態の乾酪は初めて見たから乾酪だと思わなかった」

「乾酪か。話には聞いたことがあるなあ。すごく滋養があるんだろ? 薬膳書にもたしか載ってたと思う。俺は食べたことないけど」

 と小英。


「あら、小英、じゃあ食べてごらんなさいよ。とっても美味しいわよ」

 香織が言うと、小英と青嵐は目を輝かせて大きく泡の立つ液面をじっと見たまま、

「でもこれ、どうやって食べるんだ? 何も入ってないように見えるし、なんていうか、スープみたいに飲めそうでもないし」

 と困ったように首を傾げた。


「そうね、確かに具材が……」


 辺りを見回すが、チーズフォンデュに入れるべき具材がない。

 前世では、香織は子どもたちに野菜を食べさせる目的でチーズフォンデュを作ったため、ブロッコリーやニンジンじゃがいもなどの茹でた野菜、エリンギやナスやパプリカなど軽く焼いた野菜などなど、とにかく野菜オンパレード。

 しかし不思議なことに、普段は野菜を残しがちな智樹でさえも山のような野菜をきれいに食べ尽くしていた。

 どんな野菜でも美味しく変身させる、まさにチーズフォンデュ・マジック。

 しかしその野菜も、というか具材自体が見当たらない。卓子にはぐつぐつと煮えた土鍋がどん、とひとつ置いてあるだけだ。


「う、うむ、それがだな」


 耀藍の挙動不審ぶりを見て、香織はハッと思いつく。

(これはあれね、チーズフォンデュ初心者がやりがちなミスかも)


「もしかして耀藍様、具材を用意しないうちにチー……じゃない、乾酪を溶かしてしまったんですか?」


 図星らしい。耀藍はがっくりと肩を落としている。


「せっかく皆に食べてほしかったのに……」

「で、でも! これ、耀藍様が作ったんですよね? すごいじゃないですか!」


 チーズフォンデュはチーズをただ溶かせばいいというものではない。

 香織にほめられたのがうれしかったらしい。耀藍の顔がぱっと明るくなった。

「ちょっと待っててくださいね」

 香織は急いで、厨へ戻った。

「せっかく耀藍様が作ってくれたんだから、何かチーズに絡めるものを!」

 急いで厨の中を探す。

 庭院では、三人が話し続けている。


「うむ! ちゃんと作り方をマニ族の者に聞いて覚えてきたのだ」

「マニ族に? なんだ耀藍様、しばらく顔見せないと思ったら、そんなことしてたのかよ。国境の近くに行ってたのか? なんでまた」

「国境に? 危ないですよ、用が無ければあまり近寄らないほうが」

 小英と青嵐に両側から言われ、耀藍はたじろぐ。

「う、うむ、まあ、ちょっとその、用事があってだな……」


(国境に……?)

 香織の脳裏に、麗月の記憶がよぎる。

 国境は青嵐が心配するように、本当に危険な場所だったはずだ。芭帝国の賊化した兵は残虐非道だった。

(てっきり、お城へ出仕する準備をしているのかと思っていたのに)

 香織は食材を盆に載せていく。


「ああっ、まずいぞ、乾酪が固まってしまう!」


 耀藍が悲愴な声を上げたとき、さっと香織は盆を持って戻ってきた。


「とりあえず、これを入れて食べてみましょう」


 小さく一口大にしてサッと火で炙ったおにぎり、サッと茹でた玉菜、今日の昼に食堂で残ったカボチャの煮物とすいとんの小麦粉団子。


「こ、これは……だが、いいのか? マニ族の集落で食べたのは、なんだか茹でた野菜やら小麦を固く焼いた物とかだったが」

「乾酪に絡むものならなんでも大丈夫ですよ」

 香織はにっこり笑った。


 思い出す。前世、チーズフォンデュにいろいろな物を投入したことを。

 前日の余ったおかずや固くなったパンなど、実はチーズフォンデュは残り物処分に最適なメニューなのだ。


 今も、厨からチーズに絡みやすそうなものを選んで持ってきた。


「ね、せっかう耀藍様が作ってくださったんんですから、チー……乾酪が硬くなる前に味見しましょう!」


 香織は持ってきた長い竹串に、カボチャの煮物と小さい焼きおにぎりを刺して小英と青嵐と耀藍にも渡し、自分も焼きおにぎりを刺した串を持った。


「耀藍様、食べていいのか?」

「あ、ああ、こうやってだな、鍋の中の乾酪をすくって、こう、くるくると絡めるようにしてだな」

 耀藍がやってみせると、すぐに小英と青嵐も真似をしてチーズの海に串を入れた。


「おっ、このスープはずいぶんトロリとしてるな! カボチャに絡みついてくる!」

「本当だ。乾酪というのは、こんなに柔らかくなるんだな」


 二人はくるくると串のカボチャにチーズをからめ、口に入れた。


「熱っ」

「ほう、はふはふだ!!」


 あまりのアツアツさに、二人はその場で足踏みする。


「でも美味い!」

「美味いな!」


 二人は夢中ではふはふと食べて続けた。

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