第百十一話 香織のために


 ヒゲだらけの顔の中、ぴかぴか光る木の実のような目を羊剛ようごうまたたかせた。


「なんだって?」

「そなたがここで売ってくれたら、オレがすべて買い取る。利益はそなたと羊明尚殿で良いように分けよ」

「え? なんで伯父上のことを知ってるんだ?」

「まあよいではないか。売ってくれぬのか、くれないのか」

「むう」

「そなたができぬなら、他の塩屋へ持っていく。急いでいるのだ。塩屋でなくては乾酪を扱う正式な証書を持っていないからな」

「いや待てって。売らねえとは言わねえよ。むしろ売る。伯父上から仕入れてきた乾酪なら、なおさらだ」

「そうか、ならば頼む」

「だがなあ耀藍ようらん様、乾酪はもともと高値で取引されていて、国境が不安定になってからはもっと値が上がってる。耀藍様だから懐の心配はねえと思うが、かなりな売値になるぜ?」

「案ずるな。どんな高値でもすべてオレが買い取る。なんなら、そなたと羊明尚殿の取り分が公平になるように、いくらか上乗せしてもよいぞ」

「まじか! さすがは蔡家の御曹司! なんて美味い話だ。今日は運がいいな」


 目を輝かせた羊剛に、耀藍は畳みかける。


「その代わり、頼みたい事がある」

「おう、なんでも言ってくれよ」

「この先、国境の安全が確保されたら、宮廷は乾酪がもっとたくさん流通するように計らうだろう。そのときは出荷量や値を役人と共に相談し、羊明尚殿との仲介に入ってくれぬか」

「おう、願ってもないことだぜ! 呉陽国で乾酪を流通させるのは、伯父上やマニ族の者たちの悲願だからな!」

「よし、頼む」


 耀藍は胸をなでおろす。これで後顧の憂いはない。


(あとは国境の安全を確保できれば……)


 乾酪が安く流通すれば、おそうざい食堂でも献立として充分に出せるだろう。

 乾酪火鍋は、必ず呉陽国の人々にウケる。

 味もさることながら、乾酪に絡ませる食材しだいで子どもから大人まで楽しめる料理だからだ。

 そしてたくさんの人が笑顔になれる料理が、香織が望む献立だ。


(乾酪を早く香織に届けよう。オレが香織にしてやれる最後のことだからな……)


「羊剛、金子は必ず後ほど届ける。乾酪をひと塊もらってゆくぞ」

「いいけど、どうするんだ? あっ、そうか、香織に届けるんだな!」

「まあな」

 

 耀藍は荷の中から円形の塊を取って羊剛の店を出た。





 マニ族の塩でむすんだおにぎりは、時間が経っても美味しさを失わなかった。


「味がわかるように海苔は巻かなかったんですけど、今ここで巻いても美味しいと思います」


 香織が言うと、辛好しんこうが海苔を出してきた。胡蝶と辛好が三つの塩味のおにぎりを、それぞれ半分に割って試食する。


「これは美味しいわ」

 胡蝶は目をみはる。

「どうしよう、これは太るわね。いくらでも食べられるわ」

「ただの塩味なのに、なんていうか味に奥行きがあるね。普通のおにぎりも美味しいが、これは格別だ」

 辛好もあまりの美味しさにうなっている。


「そうなんです、やっぱり普通の塩味とは違いますよね」

「マニ族の塩だったわよね? 商店では見たことないけど」

「ええ。呉陽国ではほとんど扱われてないみたいなんです。わたしも、知り合いの塩屋さんに好意で少しゆずってもらったので。ぜひ、胡蝶様や辛好さんにも食べてほしくて」

「なるほどねえ」


 胡蝶は残念そうに言った。


「流通してないんじゃ、相当な高値だろうしね。この味なら舌の肥えた上客にも大評判になること間違いなしだけど、費用がかさむから無理ね」

「まあいいじゃないか。今後の参考になったし、おにぎりを店で出すことは決定なんだし」


 香織の書いてきた料理帖をもとに作ったおにぎりが、皿に盛りつけてあった。

 長方形のお皿に、小さめににぎったおにぎりが三つ、海苔を巻いて並べてある。味はごま塩、おかか醤油、そして香織が作ってきた佃煮昆布。


「ねえ香織、この佃煮昆布って、なに?」

「出汁を取ったあとの昆布を甘辛く煮たものです。食べてみてください」


 胡蝶が佃煮を壺から箸でつまんで口に入れる。

 大きな瞳がさらに大きく見開かれた。

「甘いわ! でも美味しい!」

「だろう。ちょいと驚くよね。あたしも味見させてもらったときは驚いた」

「吉兆楼で出させてもらうおにぎりの具に、佃煮を入れてもいいですか?」


 甘いおかずは好き嫌いがある。

(でも、耀藍様はあんなに佃煮が好きだし……)

 こちらの世界でも、甘いおかずが好きな人はきっといるはず。


「ええ、もちろんよ。白飯がかたまりになっているってだけでも目を引くのに、中にこんな目新しいものが入っているなんて! きっと気に入ってくれるお客様はたくさんいると思うわ」

「よし。じゃあ決まりだね。今夜から出してみておくれよ」

「わかったわ。すぐに、御品書きに加えます」


 胡蝶は御品書きを書き換えるため、急ぎ厨を出ていった。


「さ、これで一仕事終えたね。あとはお客の評判を待つばかりだ」

「どきどきしますね」


 建安一の妓楼、吉兆楼で香織が提案したものを出してもらえるのだ。


「今さらですけど、足が震えてます……」

「何言ってんだい! 自信もちな!」


 辛好がばしん、と香織の背中を叩く。


「それに震えてなんかいられないよ。包子パオズのことも、あたしゃあきらめてないからね」

「辛好さん……」

「あんたの試作品、美味しかったよ。皮は老麺を上手く使ってあって上出来だったし、中の餡が今まで食べたことない味だった。あんたのお国の味かい?」

「え、はい、まあ……」


 包子の餡は、前世で大好きだった「中村屋の肉まんあんまん」を再現したつもりだ。


「小麦の値が落ち着いたら、胡蝶にまた提案してみるといい。それまでにまた試作品を作ってきな。店で出すなら、もう少し小ぶりのほうがいいからね」

「そ、そうですね、わかりました!」


(そうだ、立ち止まっているヒマはないわ! 試作品をまた作ろう!)


 吉兆楼で出すなら、妓女たちも食べやすいように、形を工夫してもいいかもしれない。考えるべきことは尽きない。

 そして、食べてくれる人たちの笑顔を想像すると、楽しくなる。


(そういえば、佃煮のストックを吉兆楼に持ってきちゃったから、また大量に作っておかなくちゃね。耀藍様がいつ来てもいいように……)




 そんなことを考えながら、香織は華老師宅の門をくぐる。



「――って、耀藍様?!」


 思わず目をこする。

 しかしまちがいなくそこには、いつもの着流し風の白い袍をまとった美しい立ち姿があった。


「あ、香織! おかえり!」「おかえり、香織」

 小英と青嵐が振り返る。二人は、食堂で使っている卓子の前で耀藍を囲んで何やらやっていた。


「ひ、久しぶりだな、香織」

 耀藍はぎこちなく、下を向いたまま言った。しかしぎこちないのは久しぶりだからではなく、何か作業をしているかららしい。


「何してるんですか?」


(なんだか懐かしい匂いだわ)

 香織は卓子を覗きこんで、思わず叫んだ。


「えっ……チーズフォンデュ?!」






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る