第百五話 国境偵察➀


 呉陽ごよう国、北の国境。


 芭帝国ばていこくと接するこの地域は、緩やかで緑豊かな山岳地帯だ。

 この山々が国境の役割をしているが、山中には山の民と呼ばれる少数部族が部族ごとに集落を作って暮らしているので、国境を越えるには検問所を通ることになっていた。


 峠には数か所、国境検問所がある。

 呉陽国と芭帝国は友好関係にあるので、検問所は賑わい、その風景も穏やかなもの。双方からの商人や旅人が途切れることなく列を作る。

 検問に時間がかかるときはあちこちで煮炊きの輪ができ、会話やお茶を楽しみ、ときにはそこで商談が始まるなど、のどかで平和な光景があちこちで見られる。

――しかし。


「ひどいな……」


 検問所の前で、耀藍ようらんは言葉を失った。

 いつもの袍姿ではなく、兵士と同じく草木に馴染む色の胡服に身を包み、水晶杖すいしょうじょうと呼ばれる術師の長杖を持っている。


 両国共通の検問施設はもちろん無人、扉や窓はめちゃくちゃに壊され、見る影もなかった。

 あちこちに残る火薬や矢の跡、剣で壊したと思われる竹垣、そして、赤黒い染みがあちこちに生々しく残っている。


「ここはまだマシです。死体が山の獣に荒らされてない」


 やはり胡服に身を包んだ特使、李鴻樹りこうきがさらりと言った。


「どうやら、いたちごっこのようですが」

「いたちごっことは?」

「芭帝国からの避難民は、なるべく賊がいない検問所を通ろうとする。すると、賊は狩りをするためにそこへ向かうわけです。そうすると、避難民は別の検問所を通るようになる。するとまたそこへ賊が集まる。検問所は順繰りに賊の巣となっている現状でしてね」

「なるほど」


(――香織こうしょくは、山の民を頼ったようだったが)


『わたしは確かに、芭帝国の後宮にいました。名は麗月リーユエ』。

 確かに香織はそう言った。身分のある者だったのだ。

 だから多くの民のように検問所ではなく、報酬を渡して山の民を頼ったのだろう。その方が確実に国境を越えられる。

 けれど、それも徒労に終わったようだった。賊化した芭帝国の兵によって狩られたと言っていた。


「芭帝国兵崩れの賊は、そんなに数が多いのか」

「ええ。正確な数は把握しておりませんが、おそらくこの国境付近に千人ほどはいるのでは」

「そんなにか? 芭帝国の取り締まりはどうなっているのだ!」

「芭帝国は帝都が危ういようでして、地方まで手が回っていないようです。この国境だけでなく、兵による略奪などが横行している地域も少なくないとか」

「そうか……」


 苦しそうに語る香織の声が忘れられない。

 そして、人より第六感の優れている耀藍には、この場に立っているだけで、たくさんの人々の悲痛な叫びが足元から立ち昇るように耳に届く。


「蔡術師、だいじょうぶですか? 顔色が悪いですよ?」

「――だいじょうぶだ」


 耀藍は頭を振った。ここへきた目的を果たさなくては。

 携えてきた水晶杖すいしょうじょうの先で、地面に何かを描いていく。


「なんです、それは?」

「通り道を作るのだ。建安と、ここに」


 耀藍が杖の先で描く幾何学模様は、仄かに青く光っていく。


「移動術は、起点と結点に結界を作り、その間を行き来する術だ。建安の城門の外に描いた結界とこの場所を結ぶ結界を描いて道を作れば、帰りはここから建安の城門まで一瞬で移動可能だ」

「ほう……蔡術師の術のことは噂には聞いておりますが、実際に体験できるなんて。ワクワクしますねえ」


 李鴻樹は心底楽しみというふうに目を輝かせている。


「ところで李特使。その蔡術師、というのはやめてくれ。耀藍でいい」

「とんでもない、術師は朝廷にとってかけがえのない存在。蔡家に異能を持った御方が誕生しなくては空席の地位ですからね。官吏としてお仕えしている間にお会いできて、しかも任務を御一緒できるなんて僥倖中の僥倖なんです。お名前で呼ぶなんて、畏れ多くて」

「二人で仕事するんだから、敬称で呼び合う方が不便だろう。オレも鴻樹こうきと呼ばせてもらう」

「そうですか? では……耀藍」


 あまりものにこだわらない気さくな性格なのだろう。意外とあっさり応じて、鴻樹は穏やかに笑む。


「そろそろお昼にしなくては。供の兵が、近くの山の民に煮炊きの場所を借りに行っておりますので、我らも向かいましょう。術師は食事を抜いてはいけないので配慮せよと、王より仰せつかっておりますので。食べ物の好き嫌いなどはおありですか?」

「嫌いなものはない。基本的になんでも食べる。好きなものは――」


――香織の作ったご飯ならなんでも好きだし今は佃煮のおにぎりが食べたい、と言いそうになり、耀藍はあわてて言葉を止める。


(香織……元気にしているだろうか)


 ほんの数日会っていないだけなのに、心にぽっかり穴が開いたように落ち着かなかった。

 あの日、香織を胸に抱いたときのことが脳裏をよぎる。

 小さく華奢な身体も、柔らかい髪も、見上げてきたすみれ色の瞳も、すべてをこんなに鮮やかに覚えているのに。

 今すぐにでも香織に会いたかった。


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