第百四話 ふたりの心遣い


「さっそく書いてきてくれたのかい。あんたは仕事が早いねえ」

 まかないの片付けをしつつ、辛好はレシピブック、もとい料理帖を取り出した。

「いえいえ! そんなことないです。わたし仕事がほんとうに遅くて」

「なにを謙遜してんだい」

 辛好は呆れ顔で言う。

「あんたほどちゃきちゃき仕事をする娘をあたしゃ見たことないよ。もっと自信持ちな!」


(辛好さんはお世辞を言う人じゃないわ……でも、夢みたい。わたしが仕事が早いって感謝される日がくるなんて)


 前世最後の日のことを思い出す。

 あの日、香織はパート先の若い社員に「仕事が遅くて使えないオバサン」と陰口を言われ、そのことをぼんやり考えながら帰宅していて、トラックに轢かれた。



 あの日は、「一生懸命やっても報われないんだ」と絶望のどん底だったが、異世界へ転生してからは「一生懸命やれば報われるんだ!」と日々思うことがたくさんある。


(前世でも、慣れない雑貨屋のパートじゃなくて、自分の得意なことを活かしてできることをやればよかったな)

 などと今さらながらにしみじみと思う。


 辛好はおにぎりレシピに大事そうに紐を通した。

「そうやって作り方を綴じてまとめておくのって、いいですね」

「ああ、そうさ。これは吉兆楼の歴史だからね」


 丈夫そうな紐で閉じられた紙の束は、たしかに歴史を感じる厚さと重みだ。


(やっぱり、紙で何か作るっていいわよね)


 会社という場所で働かなくなって以来、香織は事あるごとにデジタル格差を感じていた。前世ではもはやなんでもペーパーレス化が進み、子どもたちの学校PTAで委員会活動をするときすら、ワードやエクセルやパワーポイントを駆使して資料を作るのは当たり前だった。

 香織も事あるごとにデジタル格差を感じつつ、デジタルスキルがまったく無いわけでもなかったので何とかなっていたが、もともとアルバムをさまざまにデコレーションして写真を整理したり、日記や記録を残すのが好きだった香織にとっては「手で作ったほうが早いかも」と感じるシチュエーションも多々あった。

 レシピをまとめるのも、その一つだ。


「わたしも、おそうざい食堂の料理帖を作ってみよう。そうだわ、帰りに市場へ寄って耀藍様と帳面を買って――」


 そこまで考えて、ハッと気付く。


「今日は耀藍様はいないんだったわ」


 いつも一緒だったので、なんだか変な感じがする。


 吉兆楼での仕事を終え、通りを少し歩くと、なじみの茶屋の店先で香織のおにぎりと甘味を食べつつ待っていてくれた耀藍は、もういない。



 なんだか胸にぽっかり穴が開いたような、落ち着かない気分になる。



 そのとき胡蝶が厨に顔を出す。


「辛好さん、香織、今日もまかないご馳走様。香織、この後、また蕭白先生のところへ行きたいんだけど、だいじょうぶかしら?」

「あ、はい。行けます!」

「じゃあ、支度できたら正面玄関へ来てちょうだい。待ってるから」


 踊りの稽古だろう。ちょうどよかった、と香織は胸をなでおろす。

 何かしていたほうが、この説明のつかない落ち着きのなさを忘れていられるから……。





 先日と同じく胡蝶こちょうが勝手に入っていくと、奥の稽古場に蕭白しょうはくが座していた。

 中庭に面した陽だまりの中にちょこん、と座り、ゆっくりと宙を眺めるように顔は上向いている。


「いらっしゃい、胡蝶こちょう香織こうしょくさん」

「お稽古よろしくお願いします」


 入口で胡蝶に倣って一礼し稽古場に入ると、蕭白が二胡をゆっくり爪弾いた。

 指ならしであろうが、これが達人の演奏というものだろう。なんとも哀切のこもった流麗な調べに、

「きれいな音……」

 思わずうっとり聞き入っていることしばし、香織の頭の奥で何かが光った。


(まただわ! 記憶が――)


 流れるようにあふれるように『麗月リーユエ』の記憶が頭の中で映像を結ぶ。

 同時に、香織の身体は映像どおりに、蕭白老師の二胡に合わせて舞い始めた。




 冴え冴えとした月明り。

 澄んだ庭園の池、その岸で揺れる大輪の芍薬。

 麗月を腕に抱こうとする赤き龍の袍から逃げるように、麗月リーユエは優雅に花木のあいまを舞っている。

 若き皇太子はますます夢中になる。麗月は艶やかに微笑みながらも、身を委ねてはいけないと必死に舞い続ける――。




 いつの間にか二胡の音が止んだとき、香織はハッと我に返った。


「あ、あの、わたし」


 胡蝶は驚愕の表情を隠さず、蕭白は静かに二胡を床に置く。


「香織さん、貴女が舞っていたのは、舞龍まいりゅうという芭帝国の舞踏の動きでしょうね。そうなのでしょう、胡蝶?」

「え、ええ、蕭白老師しょうはくせんせい。その通りです。やはり老師の予想は当たっておいでなのですわ」

「予想? どういうことですか、胡蝶様?」


 胡蝶の代わりに蕭白がうなずいて、顔を香織の方へ向けた。


「香織さん、舞龍はね、芭帝国でも舞える人が限られます。舞を生業とする人、つまり妓女や芸人ね。あと、後宮で位の高い妃嬪です」


 香織は凍り付く。首の後ろが熱くなった気がした。


「先日、香織さんがここで弾いてくれた二胡も『清泉麗月』という芭帝国後宮に伝わる秘曲のひとつでした」


 どきりとする。蕭白は目が見えないはずなのに、香織はじっと見つめられているように感じる。


「私のところにお稽古に来なくても、あなたはじゅうぶん、人前で披露できる技をお持ちですよ」

 蕭白は微笑んで、しかし声を低くした。

「ただし、お気をつけなさい。『清泉麗月』と舞龍は、今言った通り、あなたが芭帝国の後宮にいたことを示しています。身元が知られては困るのなら『清泉麗月』は演奏しないこと、舞いは、ごくゆっくりの曲に合わせて動きを崩すようにすると良いでしょう」

「あたしの代理を務めてもらう日は、あらかじめ店の子たちにゆっくりな曲目を指定しておくわ。身元がバレない舞いなら、あたしにも負けない技量だもの、お客様も喜ぶこと間違いなしよ! 頼りにしてるからね、香織!」

 胡蝶は冗談めかして片目をつぶる。

「蕭白老師、胡蝶様……」


 二人はすべてわかっているのだろう。その上で、香織に忠告してくれているのだ。

 記憶が戻らない香織が、不用意に身元をさらすことのないように。


 隣国の後宮妃嬪だと通報すれば、謝礼が出るだろう。それを目当てに香織を売ろうとする者は必ず出てくる。

 蕭白とて、しようと思えばそれができる。胡蝶にしても同じことだ。

 けれど、二人ともそれをしない。

 その包みこむような温かさに、胸が震える。


「あなたのような若い娘さんまで国を追われるとは、大変なことでしたね。呉陽国で落ち着けることを祈っていますよ」

「あんたがどこの誰でも、今の吉兆楼にとってなくてはならない人なんだから。おそうざい食堂に来る人たちにとっても同じよ。逃げてきたってことは辛い事情があったんでしょう。この国で香織こうしょくという娘として幸せになったってバチは当たらないわよ」


 二人は微笑んだ。その優しい笑顔が、ぼんやりと溶けてぽたりと膝の上に落ちた。

「あ、ありがとうございますっ……」


 異世界でまた一つ人の温かい心に触れて、香織は胸がいっぱいになった。


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