第百三話 こうして互いの夜は更けて
抱きしめられたことも、額に口づけされたことも夢のようで、気が付いたら自室にいた香織はすべて夢だったのでは、と思った。
しかし、
その証拠に、
「なんだか、もう会えないような口ぶりだったけど……」
まさか、と思う。
もちろん、王城へ出仕するようになれば、今までのようにフラフラしていられないだろう。だからこそ蔡家へ引き上げたのだろうし、華老師宅へ来れる回数も減るのも当然のことだ。
「毎日ここで過ごしていたから、きっと寂しくて大げさになっちゃっているのかも」
いくら王城での仕事が忙しくても、週末くらいは帰ってくるだろう。
「これからは週末にたくさん耀藍様の好きなものを用意するように段取りしなくちゃね。佃煮とか、おにぎりとか、甘い卵焼きとか」
そんなことを考えながら、香織は吉兆楼へ持参するおにぎりのレシピブックの続きを仕上げたのだった。
♢
牡丹の意匠された吊灯籠がかかる回廊を、耀藍は自室へ向かって歩いていた。
「耀藍」
振り返ると、赤い上衣も艶やかな姉が立っていた。
「そなたの指示どおり、華老師の家にあった私物は回収させたぞ」
「ありがとうございます」
「そなた、今日、王城へ挨拶に参じたそうだな」
「はい。明日から特使の
「そうか」
「儀式の準備等、入城の手続きは姉上に任せきりで申しわけない。よろしくお願いします。では」
「それでよいのか?」
行こうとした耀藍は、足を止めた。
「王城内へ連れていく家人の中に、あの異国の小娘の名は入っておらなんだが」
「…………」
「入城すれば、二度と会えぬぞ。あの小娘が作る料理も食べらぬぞ。以前も言うたが、食は生活の基本じゃからな。あの小娘を厨女として、そなたの入城につきそわせればよいではないか」
いつも人を威圧するような
耀藍はゆっくりかぶりを振った。
「いいえ、姉上。それはできません」
「なぜじゃ。そなた、あの小娘を好いているのであろう?」
「…………」
「無論、王族の姫を娶るそなたは、あの小娘を妻にはできぬであろう。しかし、家人から側室にするのはよくあること。好いているのなら――」
「姉上。オレは、
静かに言葉を遮った弟に、紅蘭は目を瞠る。
「な、なんと……ならば尚のこと、連れていけばよろしかろう」
「いいえ。愛しているならなおのこと、側室になどできません。
人々のために一生懸命、毎日料理をする香織。
見事に自分の才能を、人々のために活かしている。活かそうとがんばっている。
そんな香織を、自分の勝手な都合で王城に閉じ込めることは、できない。
香織のために耀藍ができるのは、自分の異能で国境の安全を確保すること。商人が安心して行き交い、塩も小麦も、元通りに供給されること。
人々のために料理をがんばる香織が、安心して料理に打ちこめる世の中を作ること。
香織の幸せのために。
たとえ、二度と香織と会えなくなったとしても。
香織が笑ってくれている。食堂で、吉兆楼の厨で、人々の間で、香織が幸せそうに微笑んでいる。
そのためなら。
「姉上。オレは必ず国境の安全を勝ち取って参ります。お気遣い、ありがとうございます」
一礼して、今度こそ耀藍は踵を返した。
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