第百二話 もう少しだけ、このままで。
お粥を食べると身体も温まって、身体の底から元気がわいてくるのを感じた。
「うん、なんかとっても元気が出てきました。明日はいつも通り食堂をやりますね!」
三人は心配したが、けっきょく香織の熱意に折れた。
「むう、
「香織、無理すんなよ! 家事は引き続き任せとけ!」
「香織、食堂の仕事、俺に手伝えることはどんどん言ってくれよ!」
それでも助けの手を差し伸べてくれるの
「みんな……ほんとうにありがとう。おやすみなさい」
三人を各自の部屋へ見送り、
体調が悪いときは下準備を少しでも先に進めること。
これは、前世で香織が培った主婦の知恵だ。
米を研ぎ、水を張り、刻める野菜は刻んでおく。肉などは下ごしらえをしておく。昆布で水から出汁を取っておく。汁物は具を切って鍋に入れておく。
前日でも、それらの細かい作業をやっておくだけでずいぶんちがう。
ひとしきり作業を終えると、香織はあらためて土間の隅に積まれた食材をひとつひとつ観察した。
「蔡家の方は、ずいぶんたくさん食材をくださったわねえ。このままお店が開けそうだわ」
山積みになった食材の中に小麦を見つけ、香織はハッとした。
「そういえば、
呉陽国では慶事に包子を食べる習慣があるというから、試作品も兼ねて、近い日の夕飯に作ろうと思っていたのだ。
「それなのに肝心な本人がいなくなったら作れないじゃない。もう、耀藍様ったら」
香織が寝牀で休んでいる間に帰ってしまったので、少し拗ねた気持ちもある。
「でも……仕方ないわよね。出仕の準備が忙しいのかもしれないもの。忙しいときほどちゃんと食べないといけないのに、耀藍様、ちゃんと食べているかしら」
毎日一緒にご飯を食べていたからだろうか、耀藍が食卓にいなかったことが、香織は自分でも戸惑うほど気になっていた。
「や、やだ、わたしったら、どうしたのかしら。大丈夫に決まってるじゃない。耀藍様なのよ?」
黙っていても人の倍は食べる耀藍だ。
それでも気になる。
耀藍は、今、どうしているだろうか。
香織はぶるぶると首を振った。
「しっかりするのよわたし! わたしも耀藍様がお城へ行く日は吉兆楼でお留守番をしないといけないんだから、
衣装合わせも、心づもりもしなくてはならない。
それと並行して、おにぎりと包子の試作品も作っていきたい。
「そうよ、具合悪くなってなんかいられないわ!」
この転生した
わかってしまったら、今のこの穏やかで幸せな生活がどうなるかわからない。
(ずっと、この日々が続けばいい)
それが香織の願いだが、どうやらそうもいかないらしい。
記憶が戻ってきたあたりから、抗いがたい時の流れをひしひしと感じる。
だからこそ、今このときを大事にしたかった。
おそうざい食堂を、吉兆楼のまかないを、おにぎりや包子を作るという新しい挑戦も、すべてをいつも通りに進めていきたかった。
それらを手放さなくてはならなくなるかもしれない、その時まで。
「よし、がんばらなくっちゃ」
香織はおにぎりのレシピブックを仕上げるため、部屋へ戻ろうとして――ふと、足を止めた。
夜闇に、何かが動いた気がしたのだ。
(ゆ、幽霊……?!)
一瞬ひるむが、勇気をふりしぼってもう一度目をこらす。
(いいえ幽霊じゃない。あれは……でもまさか……わたしが気になっているから、そう見えるだけかも……)
恐怖とかすかな期待をこめて、おそるおそる土間から外をのぞいた。
「……ってやっぱり耀藍様?!」
木陰に隠れるように立っていたのは、耀藍だった。
雨などまったく降っていないのに、耀藍の白い絹の袍はなぜかしっとりと濡れそぼっているように見えて、香織は急に不安になった。
「もう、幽霊かと思ったじゃないですか! 冷えちゃいますからとにかく、早く中へ」
「いや、ここでいいのだ」
耀藍は頑なに動かない。しかたなく香織は
「体調はよいのか?」
そばへ行くなり切羽詰まったように問われ、香織は少し戸惑う。
「え、ええ。たくさん横にならせてもらいましたし、さっき小英が作ってくれたお粥食べたら、もうすっかり元気になりました」
「そうか」
静かに言う耀藍は、笑んでいるが表情が暗い。
「どうしたんですか? 耀藍様こそ、ちゃんとご飯食べましたか?」
(お腹が空いている、っていうのとはちょっとちがうような……)
落ちこんでいる、というのとも違う気がする。
ただ、元気がないのは確かだ。
「あっ、そうだ、何か軽く食べますか? たしかご飯が残っていたはず……もう冷めてしまったから湯漬けか、おじやになっちゃいますけど」
「いや、だいじょうぶだ」
静かな、しかしきっぱりした物言いは耀藍らしくなくて、香織はさらに不安が募った。
「そ、そっか、そうですよね、蔡家の食卓はきっとご馳走をたくさんですものね! 余計な心配でしたね……?」
月夜の薄闇と、静かな耀藍の眼差し。
その空気になんだかいたたまれなくなり、舌がどんどん空回りしていく。
「あっ、そうだ包子! 耀藍様がお城へ出仕するお祝いに、包子を作ろうと思っているんです! ご準備とかで忙しいでしょうけど、こうやって突然じゃなくて、こちらへ寄れるときをちゃんと知らせてください。だってお城に出仕するようになったら、忙しくて華老師のお家にも今みたいにしょっちゅう来るわけにいかないでしょう? それに出仕祝いだから、出仕の前に食べた方が――」
「
耀藍のアクアマリンの双眸がひたと香織を捉えた。
勢いに圧されて、香織は口をつぐむ。
「耀藍様……?」
「これをやる」
耀藍は懐から出したものを、香織の首にかけた。
「ネックレ……首飾り、ですか?」
「ああ。おまえを守ってくれるだろう。術をかけておいた」
碧玉が雫の形に加工され、サファイアのような深い碧い輝きは澄んだ水のように手に取れそうだ。銀色の華奢な鎖が通されている。
この世界の装飾品の値はわからないが、かなり高価な品だということは想像できた。
「綺麗ですね……ってそうじゃなくて! こ、こんな高価な物、いただけませんから!」
あわてて首飾りを取ろうとした香織の手に、耀藍の手が重なる。心臓が跳ね上がった。
「オレの代わりだと思ってくれ」
「へ? 代わり? どういうことで――」
香織の言葉は途中で止まった。
正確には、耀藍の胸に吸いこまれた。
(耀藍様……?!)
香織は、耀藍の胸の中にすっぽりと抱きしめられていた。
「すまぬ……少しだけ。もう少しだけ、このままで」
耳にかかる、耀藍の静かな言葉と吐息の温かさ。
抱きしめられた胸からは早い鼓動が伝わってくる。
香織の髪を、背中を、大きな手が優しく撫でていく。
その感触は、香織の胸を甘く切なくしめつけた。
(耀藍様、何かあったのですか……?)
ふとそう思った香織は、おそるおそる自分の手を耀藍の背に回し、そっと撫でた。
すると、香織を抱く腕の力が、さらに強くなった。
耀藍の体温にいっそう包みこまれ、香織の鼓動も大きくなる。
どれくらいそうしていただろうか。
ふと、耀藍の手が香織の頬を撫でた。
見上げれば、澄んだ宝玉のような瞳が優しげに笑んでいる。
一瞬だった。
耀藍の顔が近付いた、と思った刹那、温かく柔らかな感触が額に触れ、まるで印でも付けるかのようにじっと留まってから、ゆっくり離れた。
「よ、よ、耀藍さま……」
「身体をいたわるのだぞ」
大きな両手が愛おしげに香織の頬をはさんだが、
「……!」
耀藍はふりきるように背を向けると、足早に夜闇へ溶けていった。
(こ、これって、夢? そうだわ、夢かも……!)
香織は呆然とおでこを押さえて、夜の
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