第百話 動き出した歯車


 香織はまるで蠟のような顔色をしている。


「ど、どうしたんだ一体。ちょっと待ってろ、すぐに医者を」

「いや、それには及ばぬ」


 耀藍ようらん羊剛ようごうを制し、香織こうしょくの身体を抱き起こした。


「すぐに帰り華老師かせんせいに診てもらう」

「お、おお、そうだな。それがいい」


 支えた身体の軽さに耀藍は胸が締めつけられる。


 いつもくるくると動き、厨に立つ香織。

 その姿はいつも周囲に元気をくれる。

 しかし、やはりそのシワ寄せは香織の身体を蝕んでいたのだろう。


「このところ、香織は忙しくてな。疲れが出たのだろう」

「そうか。そういえば、おそうざい食堂、だったか? 噂をよく耳にする。すこぶる評判がいいぜ。香織がやってるんだろ?」

「ああ。午前中に食堂をやって、午後に吉兆楼の厨仕事へ行っている」

「へえっ、よく働くなあ。そりゃ倒れるわけだな」


 熊のようなヒゲ面が心配そうに曇った。


「それなのに無理な頼みごとをしちまったかな」

「そんなことはない。香織は料理が好きなのだ。喜んでいたではないか。芭の民と山の民の苦労の結晶、香織はおにぎりに仕上げてくれると思うぞ」

「そ、そうか……耀藍様がそう言ってくれるんなら安心だぜ」

「うむ、案ずるな。また来る」


 耀藍は塩の壺を懐に入れ、香織を横抱きに抱いて立ち上がった。


「香織に無理はさせたくねえけどよ、俺様はその塩を受け取るたびに、少なくない死を見たからな。死んでいった者たちの生きる希望を、香織がおにぎりにこめてくれるような気がしてるぜ」

「ああ、そうだな」

 耀藍はわずかに笑んだ。

(羊剛の奴、うまいことを言う)


 料理に生きる希望をこめる。


 おそらく香織は無意識だろう。だが、香織の料理が人々を魅了するのは、そのためかもしれない。






耀藍ようらん様、どうしたんだ?!」

 おかえり、と薬草部屋から顔を出しかけた小英しょうえいが、そのまま飛び出してきた。

「すまん小英。すぐに香織の部屋の褥を整えてくれ。それから、華老師かせんせいを」

「わかった!」


 華老師は薬研を挽く手を止めて、すぐに香織を診察した。


「ふむ、特に異常はない」

 耀藍と小英はホッと顔を見合わせる。

「はやり疲労か?」

「そうじゃな……倒れた直接の原因は、おそらく血虚けっきょの症状であろうが」

「先生、血虚の薬湯を煎じますか?」

「頼むぞ、小英」


 そのとき、香織こうしょくが寝牀の上で身じろぎをした。


「ん……」

「「「香織!」」」


 うっすら、すみれ色の双眸が開く。


耀藍ようらん様……? 華老師かせんせいも、小英しょうえいも」

「だいじょうぶか、香織」


 心配そうにのぞきこんだ三人はぎょっとした。すみれ色の瞳が見る間に潤み、目尻をとめどなく涙が伝っていくのだ。


「香織! どうしたんだ、つらいのか?!」

 泣きそうにな小英の手を取って、香織はわずかに首を振った。

「ちがうの。ちがうのよ……」

 その様子に、耀藍は胸が張り裂けそうになる。


(どうにかしてやれるものなら、どうにかしてやりたい)


 ただの疲労ではないのかもしれない。何が香織を苦しめているのか、それが無性に知りたくなった。


「ごめんなさい、少し頭が混乱していて……」

 香織は手のひらで涙をぬぐった。

「少し、華老師と二人で話しをしてもいいですか?」

 三人は顔を見合わせ、すぐに小英と耀藍は部屋を出る。

「あとで薬湯を持ってくるから」

 小英はそう言うと、静かに部屋の扉を閉めた。





 二人が出ていくと、香織こうしょく華老師かせんせいをじっと見上げた。

「華老師。前に、わたしの首の後ろに、芭帝国後宮の刺青しるしがあるとおっしゃいましたよね?」

「うむ」

「わたし、思い出したんです」


 記憶が波のように押し寄せて、再びじわりと視界がくもった。


「わたしは確かに、芭帝国の後宮にいました。名は麗月リーユエ。内乱に乗じて、国境を越えました。たくさんの人の命を犠牲にして……」



 香織はふるえる唇をかむ。

 秘かに後宮を出た馬車は、国境近くで潰れた。厳しい追撃があったのだ。

 護衛はほとんどやられ、残った者たちと香織は必死に走って国境の山へ入った。


 しかし、そこからがまた地獄だった。


 今度は、賊化した芭帝国兵によって執拗に狩られた。捕まったものは殺されて身ぐるみを剥がされるか、売られるために連れ去られた。胸つぶれる思いだったが、彼らを助ける余裕はなかった。



「けっきょく、国境を越えられたのはわたしと、後宮で世話をしてくれていた老宦官です。その方も、国境を越えてしばらくして、負った怪我が元で亡くなってしまいました」

「そうじゃったか……」


 華老師は予想以上の話に絶句している。


「でも、まだ思い出せないことがあるんです。わたしはどうして、芭帝国の後宮にいたのでしょう」


 香織は天井を見つめたまま、宙に向かって問いを投げかける。


「わたしは李貴妃という御方にお仕えしている女官だったようです。けれど、どうしてか皇太子の目に留まってしまいました。寵愛されそうになって戸惑ったことは覚えています。でも、、その理由がわからないのです。皇帝や皇太子の寵愛は喜ぶべきことですよね? なぜわたしは戸惑い、逃げたのでしょう」

「むう……たしかにな」


 腕を組み、黙考していた華老師かせんせいが目を開けた。


「なにか、他に理由があったと考えるべきであろうな。その理由こそが、そなたが芭帝国の後宮にいた理由にもつながるのじゃろう。まったく心当たりがないのかの?」


 問われ、香織は記憶を手繰りよせる。かすかに頭痛がしてくる。しかし、思い出したいという思いが強く、けんめいに記憶の淵にしがみつく。



「……わかりません」


 香織は目を閉じて大きく息を吐いた。額に冷や汗がにじんでいた。


「手がかりといえば、わたしはどうやら楽器ができるようなのです。昨日、胡蝶様と二胡のお稽古に行って、それがわかりました。思い出せば、舞いもできるかと」

「なるほど。それは手がかりになるかもしれんな。楽と舞いは、その地域の特色が出るものじゃ。そなたの出自や出身地が特定できるかもしれん」

「はい……お稽古場では、二胡をとてもほめていただきました」

「うむ。では、起き上がれるようになったら、その二胡と舞いを、ちと披露してくれんかの。わしは物置で二胡を探しておくでな」


 華老師の節くれだったシワだらけの手が、香織の手をしっかり押さえる。

「よいか、少しずつでよい。つらいときほど、なにごとも少しずつじゃ」


 華老師の言葉は、慈悲の雨のように香織の心に沁みこむ。


「無理はいかん。横になっておるのじゃぞ。これまでの疲労に合わせて、記憶を取り戻したことで心身に負担がかかっておるのだからな」

「はい……すみません、華老師かせんせい

「あやまることなど何もない。小英が薬湯を煎じてくれているはずじゃから、持ってくるわい」

 華老師はにこにこと頷き、部屋を出た。





「……ん?」

 部屋を出た華老師かせんせいは、鼻を小さく動かす。

 部屋の外には誰もいないが、かすかに薬湯の匂いがしていた。

「どういうことじゃ?」


 薬草部屋へ行くと、小英しょうえいが薬研を挽いていた。


「小英、すまぬの、薬湯を持ってきてくれたのか」

「え? 薬湯なら、少し前に耀藍ようらん様にお願いしましたよ」

「なんと」


 耀藍は部屋の外にいたのだろう。だから、薬湯の匂いがしていた。


「なぜに入ってこなかったんじゃ?」

 華老師は首をかしげた。





「オレは何をやっているのだ……!」


 国境の危機を救う遣いとして、耀藍は王からの抜擢を受けている。

 それなのに自分の想いにこだわってグズグズしているがために、羊剛が語っていたような、そして香織が経験したような惨劇が、国境で起こり続けているのだ。

 きっとこの瞬間も、たくさんの人々が苦しみ、命を落としている。


「そのことが香織をも苦しめているのだとしたら、香織を苦しめている元凶はオレの怠惰ではないか……!」


 薬湯の盆を持ったまま耀藍はうなだれ、絞り出すように呟く。



「オレは、今すぐ行かねば。王城へ」

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