第百話 動き出した歯車
香織はまるで蠟のような顔色をしている。
「ど、どうしたんだ一体。ちょっと待ってろ、すぐに医者を」
「いや、それには及ばぬ」
「すぐに帰り
「お、おお、そうだな。それがいい」
支えた身体の軽さに耀藍は胸が締めつけられる。
いつもくるくると動き、厨に立つ香織。
その姿はいつも周囲に元気をくれる。
しかし、やはりそのシワ寄せは香織の身体を蝕んでいたのだろう。
「このところ、香織は忙しくてな。疲れが出たのだろう」
「そうか。そういえば、おそうざい食堂、だったか? 噂をよく耳にする。すこぶる評判がいいぜ。香織がやってるんだろ?」
「ああ。午前中に食堂をやって、午後に吉兆楼の厨仕事へ行っている」
「へえっ、よく働くなあ。そりゃ倒れるわけだな」
熊のようなヒゲ面が心配そうに曇った。
「それなのに無理な頼みごとをしちまったかな」
「そんなことはない。香織は料理が好きなのだ。喜んでいたではないか。芭の民と山の民の苦労の結晶、香織はおにぎりに仕上げてくれると思うぞ」
「そ、そうか……耀藍様がそう言ってくれるんなら安心だぜ」
「うむ、案ずるな。また来る」
耀藍は塩の壺を懐に入れ、香織を横抱きに抱いて立ち上がった。
「香織に無理はさせたくねえけどよ、俺様はその塩を受け取るたびに、少なくない死を見たからな。死んでいった者たちの生きる希望を、香織がおにぎりにこめてくれるような気がしてるぜ」
「ああ、そうだな」
耀藍はわずかに笑んだ。
(羊剛の奴、うまいことを言う)
料理に生きる希望をこめる。
おそらく香織は無意識だろう。だが、香織の料理が人々を魅了するのは、そのためかもしれない。
♢
「
おかえり、と薬草部屋から顔を出しかけた
「すまん小英。すぐに香織の部屋の褥を整えてくれ。それから、
「わかった!」
華老師は薬研を挽く手を止めて、すぐに香織を診察した。
「ふむ、特に異常はない」
耀藍と小英はホッと顔を見合わせる。
「はやり疲労か?」
「そうじゃな……倒れた直接の原因は、おそらく
「先生、血虚の薬湯を煎じますか?」
「頼むぞ、小英」
そのとき、
「ん……」
「「「香織!」」」
うっすら、すみれ色の双眸が開く。
「
「だいじょうぶか、香織」
心配そうにのぞきこんだ三人はぎょっとした。すみれ色の瞳が見る間に潤み、目尻をとめどなく涙が伝っていくのだ。
「香織! どうしたんだ、つらいのか?!」
泣きそうにな小英の手を取って、香織はわずかに首を振った。
「ちがうの。ちがうのよ……」
その様子に、耀藍は胸が張り裂けそうになる。
(どうにかしてやれるものなら、どうにかしてやりたい)
ただの疲労ではないのかもしれない。何が香織を苦しめているのか、それが無性に知りたくなった。
「ごめんなさい、少し頭が混乱していて……」
香織は手のひらで涙をぬぐった。
「少し、華老師と二人で話しをしてもいいですか?」
三人は顔を見合わせ、すぐに小英と耀藍は部屋を出る。
「あとで薬湯を持ってくるから」
小英はそう言うと、静かに部屋の扉を閉めた。
♢
二人が出ていくと、
「華老師。前に、わたしの首の後ろに、芭帝国後宮の
「うむ」
「わたし、思い出したんです」
記憶が波のように押し寄せて、再びじわりと視界がくもった。
「わたしは確かに、芭帝国の後宮にいました。名は
香織はふるえる唇をかむ。
秘かに後宮を出た馬車は、国境近くで潰れた。厳しい追撃があったのだ。
護衛はほとんどやられ、残った者たちと香織は必死に走って国境の山へ入った。
しかし、そこからがまた地獄だった。
今度は、賊化した芭帝国兵によって執拗に狩られた。捕まったものは殺されて身ぐるみを剥がされるか、売られるために連れ去られた。胸つぶれる思いだったが、彼らを助ける余裕はなかった。
「けっきょく、国境を越えられたのはわたしと、後宮で世話をしてくれていた老宦官です。その方も、国境を越えてしばらくして、負った怪我が元で亡くなってしまいました」
「そうじゃったか……」
華老師は予想以上の話に絶句している。
「でも、まだ思い出せないことがあるんです。わたしはどうして、芭帝国の後宮にいたのでしょう」
香織は天井を見つめたまま、宙に向かって問いを投げかける。
「わたしは李貴妃という御方にお仕えしている女官だったようです。けれど、どうしてか皇太子の目に留まってしまいました。寵愛されそうになって戸惑ったことは覚えています。でも、なぜ戸惑ったのか、どうして後宮から逃げたのか、その理由がわからないのです。皇帝や皇太子の寵愛は喜ぶべきことですよね? なぜわたしは戸惑い、逃げたのでしょう」
「むう……たしかにな」
腕を組み、黙考していた
「なにか、他に理由があったと考えるべきであろうな。その理由こそが、そなたが芭帝国の後宮にいた理由にもつながるのじゃろう。まったく心当たりがないのかの?」
問われ、香織は記憶を手繰りよせる。かすかに頭痛がしてくる。しかし、思い出したいという思いが強く、けんめいに記憶の淵にしがみつく。
「……わかりません」
香織は目を閉じて大きく息を吐いた。額に冷や汗がにじんでいた。
「手がかりといえば、わたしはどうやら楽器ができるようなのです。昨日、胡蝶様と二胡のお稽古に行って、それがわかりました。思い出せば、舞いもできるかと」
「なるほど。それは手がかりになるかもしれんな。楽と舞いは、その地域の特色が出るものじゃ。そなたの出自や出身地が特定できるかもしれん」
「はい……お稽古場では、二胡をとてもほめていただきました」
「うむ。では、起き上がれるようになったら、その二胡と舞いを、ちと披露してくれんかの。わしは物置で二胡を探しておくでな」
華老師の節くれだったシワだらけの手が、香織の手をしっかり押さえる。
「よいか、少しずつでよい。つらいときほど、なにごとも少しずつじゃ」
華老師の言葉は、慈悲の雨のように香織の心に沁みこむ。
「無理はいかん。横になっておるのじゃぞ。これまでの疲労に合わせて、記憶を取り戻したことで心身に負担がかかっておるのだからな」
「はい……すみません、
「あやまることなど何もない。小英が薬湯を煎じてくれているはずじゃから、持ってくるわい」
華老師はにこにこと頷き、部屋を出た。
♢
「……ん?」
部屋を出た
部屋の外には誰もいないが、かすかに薬湯の匂いがしていた。
「どういうことじゃ?」
薬草部屋へ行くと、
「小英、すまぬの、薬湯を持ってきてくれたのか」
「え? 薬湯なら、少し前に
「なんと」
耀藍は部屋の外にいたのだろう。だから、薬湯の匂いがしていた。
「なぜに入ってこなかったんじゃ?」
華老師は首をかしげた。
♢
「オレは何をやっているのだ……!」
国境の危機を救う遣いとして、耀藍は王からの抜擢を受けている。
それなのに自分の想いにこだわってグズグズしているがために、羊剛が語っていたような、そして香織が経験したような惨劇が、国境で起こり続けているのだ。
きっとこの瞬間も、たくさんの人々が苦しみ、命を落としている。
「そのことが香織をも苦しめているのだとしたら、香織を苦しめている元凶はオレの怠惰ではないか……!」
薬湯の盆を持ったまま耀藍はうなだれ、絞り出すように呟く。
「オレは、今すぐ行かねば。王城へ」
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