第九十九話 密かな塩の道 


「ああ、話には聞いたことがある。マニ族というのだったか」


 耀藍ようらんが言うそばで、羊剛ようごうは竹の皮をほくほくと、しかし慎重にそうっとはがす。


「山の民にはいくつか部族があるが、マニ族は呉陽国寄りの民だ。俺様はもう少し東に住むアラム族の出身だが、隠れ家にしてるのはマニ族の集落の外れさ。俺様の母がマニ族出身なんで、ツテがあるんだ」


 大きな分厚い手がおにぎりを一つ取ると、うまそうにかじりついた。


「うまい! ほんとうに美味いねえ、このオニギリってやつは」

 羊剛はヒゲ面を極限まで崩す。

香織こうしょくが作るから美味いんだろうなあ。実は、俺様は自分でも作ってみたんだが、ぜんぜんうまくなかったんだ、これが」

「そうなのだ。おにぎりは、ただ白飯を固めるだけではないようなのだ。やはり香織が作るから美味いのだ」


 なぜか耀藍ようらんが得意げに言う。


「だよな。香織こうしょく、こりゃ露店でも出したらぜったい売れると思うぞ」

「そんなにほめていただいて……ありがとうございます」


 またたく間におにぎりをたいらげる羊剛ようごうを見て、香織こうしょくはうれしくなる。


(露店かあ、それもいいかも)

 クレープやケバブのキッチンカーのように、おにぎりを売り歩くのもいいかもしれない。


(でも、とりあえずは吉兆楼でお客さんの反応を確かめたいな)



 辛好しんこう胡蝶こちょうに頼まれたレシピブックを書きながら、香織はふと思い出したことがあった。今日、羊剛のところへ来たのは良いタイミングだ。



「羊剛さん、ミネラルをたくさん含んだ塩って、ありますか?」


 前世、COOKPODや料理雑誌に、ミネラルを多く含んだ塩がおにぎりの旨味を引き立てる、と書いてあったのを思い出した香織は、おにぎりを吉兆楼の御品書きに出すにあたり、ミネラルの多い塩を試してみようと考えたのだ。



 前世では、おにぎりのために塩を変える、なんて余裕はなかったので、塩でどれだけ差が出るのか未知数だ。

 もし、素人の香織ですらわかる違いがあるのなら、吉兆楼にやってくる舌の肥えたお客のためにもやる価値はある。



「み……みね、みねる? なんだ、それは」

「ええっと、つまり……栄養豊富ってことでしょうか」

「ああ、そういうことか。それなら、とっておきがあるぜ」


 羊剛は立ち上がって、いくつかのひつを開けた。


「うわあ、きれい!」


 櫃の中にはそれぞれ、淡い桃色、淡い黄色、淡い空色の塩が入っている。


「これらは、さっき話した少数民族から俺様が特別に買い付けてる塩だ。海じゃなくて、山の中の湖で採れるものや、山の中で岩状になった塩鉱から採れるものがある」

「わ、探しているのはまさにそれです!」


 前世、高くてたまにしか買わなかったピンク岩塩や死海の塩などは、山で採れる塩なのか、と驚いた記憶がある。それらの塩はミネラルが豊富だとうたっていた。


「俺様がガキの頃さんざん食べて、美味いと思った塩を厳選して仕入れているがな、これがまたどれも美味いのさ。ただ焼いただけの肉や野菜につけても美味いし、ただの白飯にふっても美味いし……って、まさか香織」

「はい、そのまさかです。おにぎりのための塩を探しているんです」

「おおお! そいつはいい! ぜったい美味いこと間違いなしだ!」


 羊剛は手のひらに載るほどの小さな壺を三つ持ってくると、そこに桃色、黄色、空色の塩をすりきり一杯詰めた。


「こいつをやる。お代はいらねえぜ」

「ええ?! そんなわけには」

 羊剛は香織の腕に小さな壺を押しこんで言った。

「これらの塩が美味いものに使われるなら、お代なんて小さなことよ。その代わり、この塩で作ったおにぎりを持ってきてくれ。ぜったい食べてみたい」



(う、うれしい……!)

 自分の作ったものをぜひ食べたいとこんなに熱意を傾けてくれる人がいることが、香織にはうれしくありがたい。



「もちろんです! でも、本当にいいんですか? こんな貴重そうな塩をたくさん」

「おうよ。香織が美味いおにぎりを作ってくれるなら、本望さ。これらの塩は、山の民と芭の避難民の苦労の結晶でもあるからな」

「芭の避難民? それはどういうことだ、羊剛」


 すかさず耀藍ようらんが聞くと、羊剛ようごうはしまった、というふうに頭をかいた。


「うっかり口が滑ったな。ま、あんたたちだからいいか。これは、ここだけの話にしておいてほしんだが」


 香織こうしょく耀藍ようらんはうなずく。羊剛ようごうは声を低くした。


「これらの塩は特殊で、採るのはかなりな重労働さ。塩作りで身体を壊す者は多い。だが高値で売れるから、山の民にとっては大事な生業だ。しかし芭帝国の内乱が始まってから、山の民は商いがほとんどできずにいた。賊化した芭帝国の兵たちは残忍で恐ろしいからな。

 困っていた山の民に、芭の避難民が塩の運搬を申し出てくれたんだ。山の民は避難民をけっこう匿ってやっている。その礼がしたいと、運搬をかって出てくれたらしい。

 俺様は、呉陽国の国境付近で、芭の避難民が運んでくれる塩を受け取っている。俺様からの礼は、ボロい荷馬車さ。彼らはその荷馬車を使って、呉陽国に避難できるってわけだ」



(塩の、運搬……?)



 香織こうしょくの中で、何かが引っかかった。鼓動が急に耳の奥で大きくなる。



 羊剛の表情が暗くなった。

「だが、運搬は命がけさ。俺様が待っている地点まで半分が到着できれば上々ってところだ。多くは賊化した芭帝国兵に狩られちまう。少し前なんか、二人しか生き残らなかったこともあったぜ」

「二人しか……」

「むごいな」

「なんでも、どこぞの貴人を箱に入れて四人で担いできたんだが、担いできた奴らは傷だらけで、その場で力尽きて死んだ。もう一人、先導してきた老人がその箱を荷馬車に載せて逃げていったが、あの老人も肩に重傷を負っていたし、だいたいその箱も矢が差さりまくっていたから、中の貴人が生きていたんだかどうか……」



 刹那、香織は目を見開いた。すさまじい速さで記憶が駆け抜けていく。



 ぜったいにお逃がしします、と言われて、箱に入ったこと。

 突き刺さったやじりが肌を傷付けた痛さ。

 揺れる箱の中、怒号と恐ろしい悲鳴が幾度となく聞こえ、耳をふさいだこと――。



香織こうしょく?! どうしたのだ、しっかりしろ!」

 支えてくれた耀藍ようらんの腕の感触は、すぐに遠のいていった。

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