第九十八話 デートの誘い?


 午後。

 華老師かせんせい宅の中庭に面した縁側で、香織こうしょくは途方に暮れていた。


「えーと……なにしようかな……」


 いつも忙しくしていると、いざ休みになったときに何をしていいのかわからないものだ。

 前世、智樹や結衣が小さい時、ごくたまに、保育園の一時預かりを利用したときのことを思い出す。


 いつも子どもたちを抱えてあくせく忙しくしているときは「あそこへ行きたいな、あれが食べたいな」などといろいろ空想が広がるのだが、いざ時間ができると迷ってしまって、結局スタバでコーヒーを飲んだだけ、とか、スーパーでいつもよりのんびり買い出しをしただけ、で終わってしまった。


 今は「おそうざい食堂の片付けと、お夕飯の下準備と、いつも洗濯できないものを洗いたい」とやりたいことはハッキリしているのだが、香織がやろうとするとすべてブロックされてしまう。


 食堂の卓子や椅子などを片付けようとすれば、

「香織は横になっているか、好きなことをした方がいいよ」

 と青嵐せいらんに言われ、夕飯の下準備をしようとすれば、

「そんなの俺がやるからいいんだよ。香織が食べたい物があったら教えてほしいけど」

 と小英しょうえいにやんわり遮られ、洗濯をしようとすれば、

「なに、洗濯もたまの運動になるからのう、わしに任せておきなさい。じゃが、そなたの腹当てや下着は洗えんぞ」

 と華老師に微妙な冗談まじりに断られてしまう。


「うーん……」

 香織が縁側に座っていると、耀藍ようらんが門のほうからふらっと入ってきた。おそらく、蔡家へ帰っていたのだろう。


「香織、どうしたのだ。部屋で横になっていなくてよいのか」

アクアマリンの瞳が心配そうにのぞきこむ。

「ええ、食堂も器一つ献立でしたし、ぜんぜん元気なんです。でも、青嵐も小英も華老師も手伝わせてくれなくて……」

「そうか。では、オレと市場へ行くか?」

「えっ……」



(これって、デートの誘い……?)



 思わず頬が熱くなってしまう。耀藍の端整な顔が優しく笑んでいる。


(いやいやいや! 耀藍様は優しいから、わたしが退屈そうだから誘ってくれてるだけ。かんちがいしたらダメだって!)

 そう思いつつ、うれしさに顔がゆるむ。


「いいんですか? その、耀藍様もお忙しいのでは」

「姉上から書状を預かっていてな。羊剛ようごうのところへ届けるのだ」


 塩商人羊剛は、蔡家出入りの商人だ。


「行きます!」

 香織はぱっと縁側から下りた。

「ちょっと待っててください。残ってたご飯で、急いでおにぎり作ってきますね!」





 昼下がりの市場はちょうど混雑と混雑の合間、人通りはゆるやかだった。

「こんにちは」

 塩屋の暖簾をくぐると、羊剛が帳場からはみ出るように座って、こっくりこっくり舟をこいでいる。



「羊剛。蔡紅蘭からの書状を持ってきたんだが」

 蔡紅蘭、と聞いたとたん、巨体がしゃきっと目を開いた。



「蔡紅蘭様が?! なんだ、どこだ、あの麗しい御方はどこにいらっしゃる?!」

「……姉上はここにおらん。姉上からの書状を持ってきたのだ」


 あきれた耀藍と香織を見て、羊剛は現実に引き戻されたようだ。


「なんだ、あんたらか」

「これを羊剛にと、託されてな」


 謹んで、と羊剛は書状を押し頂いた。


「ていうかな、兄ちゃん、あんた蔡家の御曹司だったんだな。どっかで見たことあると思ったんだ」

「オレもな、香織と一緒にふらりと入っておきながら、最初は思い出せなかった。羊剛は昔から我が家に出入りしているのにな」

「まったく、紅蘭様から聞いたときは肝が冷えたぜ。そういうことは早く言ってくれよな」


 ぶつくさ言う羊剛に、香織は竹の皮の包みを渡した。


「これ、作ってきたんですけど、よかったら」

「おお?! もしやオニギリか?!」

「はい。今日はネギ味噌を切らしているので、佃煮とごま塩なんですが」

「うおお! うれしいぜ、またこれが食べたいと思ってたんだ。腹も減ってるしな!」


 耀藍と香織は、店を見回す。


「やっぱりお一人でお店を?」

「おうよ。変わらずさ。いや、ますます悪くなるな。芭帝国との国境付近は、今じゃ商人は命がけで荷を運ぶありさまだ。いつ賊に襲われるかわからんからな」

「そうか……」

「?」



(耀藍様、どうしたのかしら?)



 なぜか耀藍の表情が曇ったのが香織は気になる。



 空気が暗くなったのを吹き飛ばすように羊剛が笑った。


「ま、俺様は隠れ家を持っているから、それでもなんとか荷を運ぶがな」

「隠れ家? なんだ、それは」


 耀藍の問いに、羊剛はいそいそとおにぎりの包みを開ける。


「国境沿いに暮らす、山の民の集落さ。芭帝国と呉陽国、どちらの血も混ざる民だ。俺様はそこの出身だからよ」



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