第九十六話 錯綜する記憶


「だいじょうぶか、香織こうしょく?」

 耀藍ようらんはガラにもなくおろおろしている。

「どこかで休むか? 水か茶を飲んだほうがいいのではないか?」

「いいえ、だいじょうぶです耀藍様。華老師かせんせいのお家へ帰りましょう」

「よしっ、術だ! 術で帰るぞ!」


 耀藍はひと気のない辻の真ん中に立つと、懐から札を取り出し、何事か呟く。


 あの意識がふわっとする浮遊感がしたと思ったら――そこはもう華老師宅の前だった。術というのは便利なものである。


「あれ? 香織、今日は早いね」

「おお、おかえり、香織」

「おかえり、香織」

 小英しょうえい華老師かせんせい青嵐せいらんが、薬草部屋から顔を出した。


「うん、ちょっと他の用事があって、厨の仕事を早めに切り上げてもらえたの」

「ふうん……でもなんか、顔色悪くないか?」

「そうじゃな。何かあったか?」

「たしかに」


 心配げに香織の顔をのぞきこむ小英を押しのけて、耀藍が水を湯呑にくんできた。


「香織、水を飲むのだ! そして少し横になるのだ!」

 それを見て小英、華老師、青嵐が目を丸くした。

「耀藍様が水を汲んできてる?! 槍が降ってくるんじゃねえか?!」

「ほんとうじゃ! 耀藍が周囲に気配りするなど初めてみたぞ!」

「耀藍様、だいじょうぶですか。熱があるのでは」

「何を言っているのだ小英! 失礼だぞ華老師と青嵐!! それより早く香織を部屋へ連れていくのだ!」

「へ? なんで」「どうかしたのか?」「何かあったんですか?」

「香織は具合が悪いのだ!」

「「「ええ?!」」」


 そこからは小英と華老師と耀藍に手を引かれ、青嵐が干していた布団を整え、あれよあれよという間に香織は自室へ押しこめられた。


「香織、今日は俺が夕飯作るから! 休めよ!」

「え? いや大丈夫だから小英」

「寝ておれ。休息は病の初期にはいちばんの薬じゃ」

「いえ華老師、わたし病ではないのですが」

「小英の夕飯の支度は俺が手伝うから香織は休んでくれ」

「いやいや青嵐、あなたこそ休んで! 朝からおそうざい食堂と雑用で動きっぱなしでしょ!」

「華老師と薬湯を煎じるからな! つらいだろうが少し待っているのだぞ!」

「いやそこまでつらくないですから!」


 香織の苦言を完全に無視して、四人は部屋の扉を閉めてしまった。


「みんな大げさなんだから」


 そう言いつつ、香織は少しホッとしている。

 気分が悪いのは確かだったからだ。


 襦裙じゅくんを脱ぎ、ひとえ姿で寝台に横になる。

 一気に記憶が戻ってきたからなのか、頭が痛む。つられて吐き気がした。


「思い出せたのは、わたしが麗月リーユエという名で芭帝国の後宮にいたってところだけ……」

 出生や、後宮に入る前のことは思い出せていない。


「そう。わたしは、たしか李貴妃様という御方にお仕えしていた。そして……」


 李貴妃のごく身近に仕える一女官であったこの麗月リーユエという美少女は、あとうことか皇太子の目に留まってしまう。


「そして、わたしは逃げたのだわ」


 折しも、内乱で国が荒れている最中。

 後宮での小火ぼや騒ぎに乗じて、麗月は逃げた。


「でも、他にも理由があったような気がする」

 逃げたのは、身の清らかさを守るためだけではないと思う。

 だいたい、後宮という場所柄、皇帝や皇太子の目に留まるのは喜ばしいことであるはずだ。


 けれど麗月は逃げた。


 それに、いくらなんでも皇太子に目を付けられたからと言って、それだけで逃げるのはおかしい。

 他の理由があったはずだが――どうしても思い出せない。


「それに、わたしはどうやって逃げたのかしら」

 小火騒ぎに乗じたとはいえ、鉄壁の守りを持つ後宮から自力で逃げられるものだろうか。

「いいえ、一人じゃない。わたしは誰か外の人と、連絡を取っていた気がする」


 それを思い出したい。

 だが、思い出そうとすると、頭痛がひどくなる。

 香織は寝台の上でうめいた。


「――ダメだわ。無理に思い出そうとすると今の生活に支障が出ちゃう」


 このあと夕飯は作りたいし、明日もおそうざい食堂は開きたいし、吉兆楼の仕事にも明々後日には戻りたい。


「……ま、いっか」


 考えてみれば、すぐに思い出さなくても何も困ることはない。

 転生してきた香織は、今のこの生活が無事に送れればそれで満足だ。

 この美少女の記憶が判明したとして、今の生活に何も良いことはない。

「むしろ大騒ぎになっちゃうわ」


 呉陽国は、芭帝国の内乱の煽りをモロに受けている。香織には建安のことしかわからないが、国の王都が治安悪化や物価高に苦しんでいるのなら、地方も推して然るべし。

 香織が芭帝国後宮にゆかりの者だとわかったら、快く思わない人もいるだろう。


「このことは誰にも言わないでおこう」


 今日、二胡を弾いて記憶が蘇ったように、何かがきっかけで記憶が戻ることがまたあるかもしれない。

 そのときを待てばいいのではないだろうか?


「だって今はただ、おそうざい食堂でみんなにお惣菜を作って、吉兆楼でまかないと料理の仕込みを手伝って……」

 そして、吉兆楼の御品書きに載せてもらえることになったおにぎりを、多くの人に食べてもらいたい。

 そのために、日々がんばりたい。



 この麗月リーユエという美少女の身の上については、ひとまず脇に置いておこう。

 ただ、華老師かせんせい香織こうしょくの首の後ろの刺青から、香織が芭帝国後宮から来たのでは、と見当をつけていた。


(華老師だけには、何かの折に話そう。今はおそうざい食堂と吉兆楼の仕事をいっしょうけんめいやりたい。あとのことは、そのときに考えよう……)


 そう心に決めてしまうと、香織の意識は急速にまどろみの中へ溶けていった。




 香織のこの考え方は、よかったと言える。

 見えざる手の力ともいえる成り行きで、香織は「麗月リーユエ」が後宮から逃走した一件について知ることになるからだ。

 

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