第九十五話 わたしの本当の名は


 稽古場は建安の南、都の東西大路を少し入った静かな路地にあった。


 一見、普通の住宅だ。華老師かせんせいの家と似ている。庭がほとんどないところをのぞいては、古いがよく手入れされた雰囲気などがよく似ていた。


 胡蝶こちょうは慣れた様子で玄関扉の前で一礼して中へ入ると、くつを脱いでそのまま中へ入っていく。


「あ、あの、胡蝶様」

「おい胡蝶、勝手に入ってよいのか」

 香織こうしょく耀藍ようらんは玄関でためらったが、

「だいじょうぶですよ。訪いなどを入れると、かえってご迷惑なのでね」


 そう言って奥へ進むので、香織と耀藍も後に続く。


 小さな中庭を囲む廊下をぐるりと歩き、奥の部屋の前で胡蝶は止まった。


蕭白しょうはくさま、失礼しますよ」


 古い、よく磨かれた引き戸を開けると、そこは広い板敷の部屋になっていた。

 部屋にはほとんど何もない。隅に、飾り棚と抽斗ひきだしのたくさんついた棚があるだけ。しかし、部屋の隅にずらりと立てかけられた楽器をみて、香織は思わず歓声を上げた。


「うわあ、素敵な楽器……」

 なぜか胸が高鳴る。


(これ、華流ドラマで見たことあるかも)

 三味線ともギターとも違うこの弦楽器は、確か――


「二胡、弾いてみますか」


 穏やかな声に香織が振り向くと、そこに白髪の老女が立っていた。

「え、と、あの」

 香織が答えに詰まっていると、老女は小首をかしげた。

「おや、勘が外れたかしら。あなたは、二胡を弾く方だと思ったのだけど」


 目を閉じて、少し上向きがちに言う老女を見て、香織こうしょくはハッとした。


(目が見えないんだわ)

「あら香織、あなた弾けるの?」

 いつの間にか、二胡を抱えてやってきた胡蝶こちょうが言う。

「なら話が早いわ」

「まさか! 私、二胡なんて弾けません!」

「ほんと? 蕭白さまの勘は外れたことがないんだけど。すごいのよ、なんでも言い当てておしまいになるの」

「まあまあ胡蝶、お客様が二人とも驚いてしまいますよ」

「蕭白さま、お客様じゃなくてお稽古に来たんですよ。この子は香織。妓女ではないのですが、ちょっと理由があって御座敷に出るので」

「まあ、そうだったの」

「さ、香織」


 二胡を渡されて、香織は戸惑った――が、しかし。


 華流ドラマで見たことがあっただけのその楽器を手に持った途端、頭の中に何かが急激に蘇る。

 勝手に身体が動いて二胡をかまえると、指が弦を爪弾き、弓が優雅に弦の上を滑り出した。


(ウソ……わたし、弾けてる?!)


 同時に、自分の頭の中なのに他人の記憶をなぞっているような、奇妙な感覚に襲われる。

 まるで別の生き物のように香織の指は夢中に動き、澄んだ川の流れのような哀愁を帯びた旋律を奏でる。


 その川の流れに、魚のウロコが光ったような気がした。

 思わず「あ」と声を上げる。



(わたしの名は……わたしの本当の名は、麗月リーユエ



 間違いない記憶の断片。

 それを確信した瞬間、波が押し寄せるように映像が脳内に流れ込んできた。




 それは後宮と呼ばれる場所だろう。

 煌びやかな金細工の装飾に囲まれた宮殿。

 色鮮やかな衣裳をまとった妃嬪、それにかしづく女官。

 その女官の中に、香織こうしょく――いや、麗月リーユエの姿もあった。

 化粧を凝らし、髪を高く結い上げた美女たちが頭を垂れる中、若い美丈夫が悠々と歩いてくる。彼は龍が意匠された、赤い袍を纏っていた。

 その龍が、立ち止まる。

 皇帝の嗣子であることを示すその琥珀色の瞳が、麗月の上に留まる。

 そして――。




香織こうしょく! 香織!」


 肩を揺さぶられて顔を上げれば、胡蝶が頬を紅潮させていた。

「すごいじゃない! こんなに弾けるなら、すぐにでも御座敷に上がれるわ!」

「は、はい……」


 香織は笑んだつもりだが、うまくいったか分からない。頭がかなり混乱していた。

 胡蝶が心配そうに眉を寄せる。


「でも、ずいぶん顔色が悪いわ。だいじょうぶ?」

「すみません、なんだか急に気分が悪くなって」

 香織は正直に答えた。

「疲れているのではないか? このところ、朝は食堂、昼は吉兆楼、夜もなにやら厨にいるし、休めてないのではないか?」

 耀藍が横から心配そうに言えば、胡蝶もうなずく。

「そうね。香織は働きすぎかもしれないわ。そうだ! 明日は店は休みだし、明後日も続けてお休みなさいな。辛好しんこうにはちゃんと言っておくから心配しないで」

「そんな! わたし、大丈夫ですから!」

「ダメ。休むべきときに休まないと、あとで祟るんだから。それに、あれだけ弾けるならお稽古もしなくて大丈夫だし」

「あら、せっかくの演奏を、もっと聴きたかったわねえ」


 蕭白しょうはくがおっとりと言うと、胡蝶もうなずいた。


「あたしもですわ、蕭白さま。一応、舞いを一通り見せようとも思いますし、また日を改めてうかがいますわ」

「それは楽しみなこと」


 和やかな空気の中、香織は耀藍と蕭白の稽古場を辞した。胡蝶は蕭白にお茶を淹れると言って、残った。



 胡蝶こちょうが芳香の上がる茶器を盆に載せて戻ってくると、蕭白しょうはくめしいた双眸で何かを見ているように、中庭を向いていた。

「蕭白さま、お茶を」

 茶器を差し出すと、蕭白は深く頭を垂れて受け取り、胡蝶にもすすめた。二人は小さな中庭に目を向けて芳香を楽しんでいたが、


「胡蝶や。あの子に、さっきの曲を人前で弾いてはいけないとお伝えなさいね」

 突然、蕭白がぽつりと、しかしきっぱりと言った。


「どうしてです? 素晴らしい曲でしたのに」 

 聞いたことのない、優美な旋律だった。

「きっと、帝国の曲ですわ。香織は芭帝国から流れてきたらしいのです。馬車に轢かれて、記憶が無いみたいなのですが……」

「どこか欠けていると感じたのですが、記憶を失っているのですか。それならば、なおのこと」

「どういうことです、蕭白さま?」

「あれは『清泉麗月』という曲です。私も生涯で数度しか聞いたことがありません。あれは、芭帝国の後宮に伝わるという秘曲なのですよ」

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