第九十四話 おにぎり、吉兆楼の御品書きへ
「えっ」
思いがけない
辛好が香織の背中を軽くたたいた。
「ほら、あんたこの前、まかないで作っただろう、おにぎり。あたしが胡蝶の分を取り分けて、食べさせたのさ」
「すごく美味しいし、理にかなっていて気に入ったの。呉陽国はお米の流通は飢饉でもない限り止まらないから、品書きに加えるにはうってつけだと思うの。いいかしら?」
「は、はい! もちろんです!」
「ほんと? じゃあ、お願いがあるんだけど」
胡蝶は紐で閉じた分厚い帳面を取り出した。
「これは、吉兆楼の品書きに載っている料理すべての作り方が書いてある帳面なの」
「え?! 見せてもらってもいいですか?」
「ええ、もちろんよ」
帳面を開いて香織は目をみはる。
最初の頁には目次が付いていて、ずらりと料理の名前が並んでいた。
ときに挿絵付きで、詳しく料理の作り方が書いてある。茹でた野菜の絞り方、切り方、肉や魚の下ごしらえまで事細かに記されている。
まさに吉兆楼の虎の巻、完璧なレシピブックだ。
帳面の後ろを開くと、何も書かれていない紙が閉じてある。胡蝶が紐をほどき、その白紙の頁を数枚抜いて香織に渡した。
「これに、おにぎりの作り方を書いてきてくれる? どんなに些細なこともすべて書いてきてほしいの。誰が作っても同じ味になるようにね。いいかしら?」
「はい!」
香織は胸が高鳴った。吉兆楼のレシピブックにおにぎりの作り方を載せられるなんて、夢のようだ。
「ふふ、じゃあ、決まりね」
「ああ、話しがついたね。それじゃ香織、行ってきな」
「へ? 行くって……お使いありましたっけ?」
胡蝶が笑った。
「やあね、香織。忘れたの? あたしの代理をしてもらうって言ったでしょ」
術師、つまり耀藍が王城へ行く日、その歓迎の宴で胡蝶と三姫が舞いを披露することになり、吉兆楼の人手が足りなくなる。
それを補うために、というか胡蝶の代理として、その日だけ香織がお座敷に出ることになったのだ。
「香織には全体の監視役を主にしてもらうって言ったけれど、楽器や舞いも少しはね。それとも、覚えがあるのかしら?」
「い、いえ、ぜんぜん」
楽器なんて、遠い昔にピアノを少しやっていたくらいで、大人になってからは触ったこともない。
舞いにいたっては、これまた遠い昔のお遊戯会の記憶までさかのぼらなくてはならない。
「あの……胡蝶様、やっぱりわたしに胡蝶様の代理なんて無理なんじゃあ……今からでも考えなおしませんか?」
香織の提案を無視して、胡蝶は辛好にレシピブックを返しつつ聞いた。
「辛好、もう香織を借りてもいいのかしら」
「ああ。まかないは終わったし、頼んだ下ごしらえもしてもらったからね。行ってきな」
辛好もすまして言う。
これは逃げられそうにない。
「う……もう不安でしかないです……」
「さあ、行くわよ香織。かりそめとはいえ、あたしの代理なんですからね。初歩はみっちり仕込むわよぉ」
胡蝶は目を爛々とかがやかせている。
(目が、目がこわいです胡蝶様!)
香織は溜息をつきつつも丁寧に白紙の頁を荷物にしまい、身支度をして胡蝶についていった。
♢
胡蝶は、濃い紫の大きな紗をふわりと頭から巻いてかぶっている。
「妓女はね、花街から出れないの」
胡蝶は、香織にも薄いピンク色の紗を同じようにかぶせた。
「でも、いくつか例外がある。その少ない例外のひとつが、稽古場へ行くときよ。楽器も舞いも、稽古場は花街の外にあるから」
「なるほど、外に出るから顔を隠して行くってことですか?」
「まあね、あたしや香織は出入り自由の身だから紗をかぶる必要はないんだけど、なんとなくクセでね。あたしも稽古場へ行くときはこの格好よ」
いいかもしれない、と香織は思う。胡蝶のような美女が都大路を通ったら、人々が振り返って大騒ぎになってしまう。
いつもの茶屋の前を通ると、書物を読んでいた
「ん?
「ちがいますよ白龍様。これから香織はお稽古なんです」
「は? 稽古? なんでだ」
「まだ公になっていない方面の事情でして」
胡蝶は柔らかく言葉を濁す。
(そっか、王城からの密かな打診だって言ってたものね。でも、耀藍様はその宴の主役なわけだけど……)
胡蝶は耀藍が蔡家の御曹司と知っているかもしれないが、
「む、そうか。とにかく香織が行くところには着いていくのがオレの仕事だからな。一緒に行くぞ」
「あらうれしい。白龍様と御一緒できるなんて」
胡蝶の微笑みは心からのものに見える。
まったくの社交辞令ではなく、本当にうれしいのだろう。
(胡蝶様も耀藍様がお気に入りなんだな)
胡蝶のような豪奢な美女の目にも留まるほど、耀藍はやはり麗しいのだろう。
香織の胸が、ツキンと痛む。
「どうしたのだ、香織?」
「え? い、いえ、なんでもないです!」
「では白龍様も。稽古場へ行きましょう」
三人は揃って、花街を出た。
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