第九十二話 真実は知らせなくても、いい。
「
「なにがだ?」
吉兆楼の帰り。
いつものように夜市へ向かいつつ、珍しく
「なんだ……? 鍋の中の未完成の佃煮をつまみ食いしたことがバレたか? それとも昼間、卓子に最初に出してあった泡菜を全て食べてしまったことか? それとも……」
耀藍が一人ブツブツ呟くのを香織が遮った。
「もうっ、ちがいます! そんなことじゃなくて!」
「じゃあなんだというのだ」
「耀藍様、近々王城へ行かれるんですよね?」
「なっ」
どうしよう。まだ気持ちの整理がつかず、香織には話していなかったのだ。
「なんでそのことをっ……」
どこから話していいかもわからない。
それに――どのように別れを告げればいいのかわからない。
入城の話をして、残りの日々を平気な顔で過ごせるとも思えなかった。
「ええと、だな。つまり、物事には順序というものがあってだな」
耀藍がオロオロしていると、
「おめでたいことなんですから、早く言ってくれたらよかったのに」
香織が拗ねたように言う。
「へ?」
「だって、やっと正式に御役目に付けるってことですものね」
「お、おう、まあそうだが」
「やっぱりおめでたいじゃないですか! 耀藍様は日常生活でも術を使えるほどの御方なんですから、早くその能力を王様のお役に立てたほうがいいですよ!」
ニコニコと、
その笑顔には、一点の曇りもない。
「香織」
「はい?」
「あ、いや……」
(香織はたぶん知らぬのだな。術師は、一度入城すれば生涯玉座に仕え、王城で暮らすことを。入城すれば、二度と会えぬことを)
そのことが耀藍の胸を切なく締めつけると同時に、安堵ももたらした。
(知らぬなら、知らぬままでよい)
残りの日々を、香織の料理を食べて、香織の笑顔を見て過ごせるなら、香織に真実を知らせなくてもいい。
「耀藍様? どうしたんですか?」
いつの間にか夜市の人波の中、香織が不思議そうに振り返っている。
「ほら、この前教えてくださった粉屋さんです」
気が付けば粉屋の前だった。小麦粉や片栗粉、トウモロコシを挽いた粉や餅粉など、いろいろな粉が売っている。
「今日は、小麦粉を買っていこうと思っているんです」
「小麦粉か。しかし、今がいちばん高値だぞ? 急いで入用なのか?」
「包子を作るんです」
「包子を?」
「はい。うまくできたら、吉兆楼でお客様に出してもいいって、辛好さんが」
「ほう、吉兆楼で出せるとは、すごいではないか」
「え、ええと、まだ決まったわけじゃないですよ?」
香織は顔を真っ赤にしてあわてた。
「でも、せっかくの機会なので試作品をたくさん作ってみたいんです。それに、呉陽国ではお祝いのときに包子を食べる風習があるんですよね」
「そうだな。普段も食べることはあるが、祝い事のときが多いかもしれん」
「でしょう? だからちょうどいいです。耀藍様へのお祝いに作らせてもらいます!」
「オレに?」
「はい。耀藍様が術師として、正式にお仕えするお祝いです。言ってみれば就職祝いですよ!」
香織はうれしそうに、少しはにかんだように笑んだ。
その抱きしめたいほどかわいい笑顔に、耀藍は胸がきゅうと痛む。
(これでは諦めきれぬではないか……!)
「異能で人々を救うためにこの世に生を受けた」と幼いころから言われ続けた。
ずっと
どこかで、自分の存在を嫌っていた
異能なんていらない。普通でありたかった。
そう思っていた。
しかし今、「自分はなぜ異能を持って生まれてきたのか」、ずっと疑問に思ってきたその答えが、目の前に突き付けられたのだ。
今すぐにでも王城へ向かい、自分の成すべきことをやるべきなのはわかっている。
しかし、香織とこうして時間を過ごすたびに、香織をあきらめきれない想いが募っていく。
(こんなにも心惹かれていたとはな)
耀藍は苦笑し、改めて思う。
(だが、だからこそ、姉上の提案を受け入れるわけにはいかぬ。香織には、香織の世界がある。オレの都合で振り回すことは断じてならぬ)
粉屋の店先で、たくさんの人に混じってじっと粉を見ていた香織が、振り向いて困ったように小首をかしげた。
「耀藍様、こっちの小麦粉の方が安いんですけど、どうしてでしょう? 挽きが荒いんでしょうか? 包子を作るのに、どれがいいと思いますか?」
「ん? ああ、それはな……」
小麦粉を前に悩んでいる香織の隣へ、耀藍は並んだ。
「これかな。それともこれかな。ううん、こんなに小麦粉の種類があるなんてびっくりです。耀藍様のお祝なんだから、耀藍様が美味しいって思ってくださるようにしたいです。どれがいいとか、ありますか? 蔡家では、どの小麦粉を使っているんでしょう……って耀藍様??」
気が付くと、耀藍は香織の手を取っていた。
「どうしたんですか? 厠に行きたくなったんですか??」
すみれ色の瞳をきょとんと丸くする、その顔も。
一生懸命、耀藍のために美味しいものを食べさせようとしてくれる、その姿も。
厠って子どもかっ、とツッコみたくなるようなトンチンカンなことを言うところも。
香織のすべてが愛おしい。
「いや、厠ではない。安心しろ、小麦粉を選んでやるから」
耀藍は微笑むと、小さな手をそっとぎゅっと握った。
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