第九十話 ママ友たちが幸せになりますように。


「胡蝶様!」

「おはようございます!」


 妓女たちは胡蝶こちょうの姿を見るとさらに背筋を伸ばす。

 辛好しんこうの小言のもと配膳もきびきびと進み、すでに食べ始めている者もいた。


 皆、思い思いの場所でまかないを食べるが、この頃では厨の隅で食べていく妓女も多く、厨の中では雑談の花が咲き賑やかだ。

 胡蝶はいつの間にか、鍋をまぜている香織こうしょくの隣に立っていた。


「香織のおかげね」

「え?」

「香織がまかないを作ってくれるようになってから、妓女たちはまめまめしく動くことを覚えたわ。それに、生活が規則正しくなった。あたしがこの子たちに教えたいと思ってもなかなか教えてやれないことを、香織がまかないを作ることで教えてくれたのよ」

「そ、そんな、わたしなんて」


 香織は顔を赤らめた。

 胡蝶の美貌には未だにうっとりしてしまう。

 女性同士といえど、美しいものは美しい。結い上げた射干玉の髪が寝起きで乱れていても、化粧をしていなくても、美女というのは内側から光を放つものなのだ、と思う。

 胡蝶のような美女にこんなに間近でほめられると、その内側から放たれる魅力がまぶしくて、気持ちがフワフワとなる。


香織こうしょくはもっと自分に自信を持ちなさいな」

「自信、ですか……?」

「そう。香織こうしょくのように生活の柱になれる人――つまり、家庭の主婦こそが、この世にはとても大事な存在なの。食は生活の基本。生活には軸となる時間がある。それらが規則正しく動いてこそ、みんなの生活がうまくいく。それを体現する主婦が一家に一人いるのは、とても大切で貴重なこと。見過ごされがちだけど」


 前世であれば飛び上がって喜んでいたであろう主婦賛歌を聞いて、ふと、香織の脳裏に前世のママ友たちの顔がつぎつぎと流れていった。


(この言葉は、あのママ友たちと分かち合いたい……!)


 香織の周囲にも、誰にも認められず感謝もされず、主婦であることに自信や誇りを持てないママ友がたくさんいたから。


 香織はあまり社交的ではなかったが、智樹と結衣、2人の友だちのママたちには、気の合う人もそれなりにいた。

 子どもたちを遊ばせながらいろんな話をする中で、みんな同じ悩みや苦しさを抱えているんだ、とずいぶん励まされたものだった。


 そう、ママ友たちは人知れず、日々がんばっていた。


 子どもたちを前後に乗せ、雨の日も風の日も懸命に自転車をこぎ、あるいは車を運転して、あるいはバスで、電車で、歩きで。

 保育園や幼稚園、遠いところまで習い事や病院や買い物に行き、朝から晩まで子どもと家を守るために働いた。

 そのことをよく知っている香織は、自分だけが胡蝶の言葉に癒されるのではなく、彼女たちにもこのエールを届けたいと思ったのだ。

 たとえ、もう戻れない場所、会えない人たちだとわかっていても。


(祈ろう。ママ友たちのために)


 かつて、ともに小さな子どもを抱えて毎日を励まし合った人たち。

 今はもう会えない彼女たちも、どこかで、何らかのカタチで幸せになってほしい。


「ありがとうございます! 胡蝶様のお言葉、わたし一生忘れません!」

 その思いをこめて言うと、胡蝶は上品な笑い声をたてた。

「いやだ、おおげさねえ。あたしは心から思うことを言っているまでよ」

「いえ、胡蝶様のその言葉で、救われる人たちがたくさんいるんです」


 しみじみと言う香織を不思議そうに見ていた胡蝶だが、

「あたしこそ、香織に救われたのよ」

 と静かに言った。


「あたしはこの通り生粋の花街育ち、骨の随まで妓女でしょ? だから、食の大切さとか規則正しくとか、わかっていてもなかなか体現できないの。いずれ、あの子たちがここを出ていくときに助けになる習慣だとわかっていてもね」



 香織こうしょくは、美しき店主に目を瞠った。

「胡蝶様は、妓女さんたちをここから出してあげたいんですね?」



 花街という場所は、一度入れば抜けるのはとても難しいという。

 妓女たちは親の借金のカタに売られた者がほとんどだ。借金を返すまで年季は空けないし、そうなる前に無理が祟って病で命を落とす者もいる。


 胡蝶こちょうは優しく微笑む。

「ええ、そうね。儚い夢とわかっているわ。でもあの子たちがいつか、外の世界へ出ていけることを、あたしは願っているの。妓楼の店主のくせに、おかしいかもしれないけれど」


 胡蝶の店主としての器の大きさに、香織は改めて感心する。

 妓女たちの将来や幸せを考える胡蝶の店だからこそ、建安一と言われる妓楼になったのだろうと思った。


「いいえ! おかしくなんかないです! 胡蝶様が妓女さんたちに慕われる理由がよくわかりました!」

 力説する香織にさらに近付き、胡蝶は「お上手ね」と笑う。


「ところで、香織こうしょく。今日はあなたに相談があってきたのよ」

「わたしに、ですか? 辛好しんこうさんじゃなくて?」

「ええ。相談というのは、料理のことだけど料理のことだけじゃなくてね」

 声を低めた胡蝶は、意外なことを口にした。


「……王城へ新しい術師が迎えられるという噂を、聞いたことがあるかしら?」


「い、いいえ」

 思わず答え方が硬くなったのは、脳裏にアクアマリンの双眸がよぎったからだ。

(術師って、耀藍ようらん様のことよね……?)



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