第八十九話 老麺と物価高
「
「ああ。秘老とも言うね」
酵母菌の混ざった生地を作り、それをつぎ足しつぎ足し使うらしい。容器を洗わずにずっと継ぎ足して使う、秘伝のタレのような物だという。
これがどうやら、こちらの世界のイースト、つまり、包子がふくらむ大事なアイテムというわけだ。
「だいたいはどの家にも自家製の老麺がある。昔から家に伝わってきたものが多いね。娘が嫁にいくとき、持たせる人もいるねえ」
「なるほど、昔のぬか床みたいですね」
「ぬかどこ? なんだいそりゃ」
「あ、いえいえ、なんでもないです」
いけない。つい例えが前世風になってしまう。
「包子がふっくら膨らむかどうかは、この老麺の出来具合による。各家庭に伝わっている物はだいたいちゃんと膨らむよ。買うなら、よく店を見ないとダメだ。ただ小麦を練った物を売っているようなボロい商売をしている輩もいるからね」
「わかりました、気を付けてみます」
「なんだいあんた、老麺を買うのい」
「はい、包子を作りたくって」
辛好は呆れたように眉を上げた。
「あんたもつくづく物好きだねえ。今は小麦粉も高いし、老麺なんて目ん玉が飛び出す値段だっていうのにさ」
「そ、そうなんですか?!」
包子作り、早くも頓挫?! と香織が冷や汗を流したとき。
「まったく、若いもんは考えナシだから困る」
辛好はそういって、どっこらしょ、と休憩用の椅子から立った。自分の作業場の床にかがみ、
「ああ、あったあった」
そう言って持ってきたのは、小さな木の器だ。
蓋を取ると、中には白っぽい粘土のようなかたまりが入っていた。
「これ、もしかして老麺ですか?!」
「ああ。たまに吉兆楼でも祝い事があったときに作るからね」
「使ってみな。店で出せると思うくらいうまくできたら味見してやってもいい。持ってきな」
「は、はい!」
近頃ではなんだかんだと親切にしてくれる辛好だ。
相変わらず口は悪いが、だからこそ心遣いの温かさがダイレクトに伝わってくる。
「美味くできたら胡蝶に話をして、店で出してやってもいい」
「ほんとうですか?!」
店で出すメニューを作れるなんて、夢のようだ。
「その前にまかないで味見してもらった方がいいでしょうか?」
すると辛好は大きく手を振った。
「まかないなんて、とんでもない。とても無理さね。このところの物価高で小麦粉にはほとんど手が出やしない」
「そっか、たしかにそうですね……」
耀藍の説明によれば、芭帝国内乱のせいでほとんどすべての商品の値が上がっているらしいが、中でも小麦粉はかなり高値の部類だったと記憶している。
辛好はおもいきり顔をしかめた。
「まったく、隣の国の戦だってのに、なんでうちの国までとばっちり食うんだか……どうなってんだい芭帝国って国はさ。あ、べつにあんたに文句言ってるわけじゃなくて、あんたのお国に文句言ってんだ」
辛好は香織の容姿をじっと見て、溜息をつく。
「あんたみたいに若くて綺麗な娘が行き倒れ同然で逃げてこなきゃいけないほど、荒れてるんだろ」
「は、はあ……わたし、まだ記憶がもどらなくて何もわからないんですが……きっと、苦しい状況なんだと思います。建安にも最近、芭帝国から逃げてきた人たちが多くなりましたし」
少し前、おそうざい食堂に芭帝国からの避難者が来たとき、青嵐に話を聞いた。
建安の都の隅に、ボロボロの布や拾い集めた木材で申しわけ程度に囲った家とも言えない場所に、故国から逃げてきた芭人がたくさんひしめいているのだという。
日々の食べる物が無いのはもちろんだが、衣類もなく、着替えもできず、しかし下手に出歩くと「汚い」と殴る蹴るの暴行を受けるので、人々は途方に暮れているという。
以来、香織はおそうざい食堂で残った物が出ると、青嵐にこっそり、その場所へ届けてもらっていた。
「そう、それだよ。それで建安の治安がちょっと悪くなってるってお客が言ってるらしい。市場で物取りが絶えないようだ」
たしかに、青嵐と出会ったのも市場で、肉屋の店先だった。
「だが、物取りは芭人だけじゃない。呉陽国でもこの物価高で食い詰めて、盗みを働く者がたくさんいるってね。花街に娘を売ろうとする親も増えて、妓女見習いは今、定員いっぱいらしい。世も末ってことだよ。呉陽国は平和で住みやすいって有名なのに、王様は何をなさっているんだか」
辛好がやれやれ、と溜息をつくと、妓女たちの足音が聞こえてきた。
「んー、今日もいい匂いぃ。香織ー、今日のまかないなあに?」
先頭にいるのは三姫のひとり、
「今日はブタの角煮、青菜とキノコと干し肉の炒め物、玉菜とニンジンのピクルス……じゃなくて甘酢漬けですよ」
「美味しそうぅう!」
早くも妓女たちは鍋に釘付けだ。
「ほれあんたたち、ボサっとしてないで器を並べな!」
「はあい、辛好さん」
辛好に急かされて妓女たちが器を並べたり、料理を鍋からよそっていると、
「あらあらあんたたち、器を出すなんて、いっぱしの主婦みたいじゃないの」
艶やかな声で優雅に厨へ入ってきたのは、薄紫の薄物を羽織った美しき店主、
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