第八十七話 心配事は二度目の朝食のあとで
夜明けマジック、とひそかに
香織の異世界の日々は、まだ暗いうちに外へ出て、水場で顔を洗うことから始まる。
桶に水を溜めて顔を洗い、顔を上げる。
すると、空がうっすらと明るくなっている。
通りに出れば、東の方角から朱と薄藍のグラデ―ジョンが夜を押し上げていく空が見える。
その中で深呼吸すれば、ふしぎと身体の底から活力が沸いてくる。
「今日も一日がんばろう」と思える。
これが夜明けマジックだ。
もったいないことをしていたな、と香織は思う。前世でも朝はけっこう早かった。五時には起きていたのに、夜明けマジックには気が付かなかった。
あの頃は、起きたら台所へ直行、弁当作りに朝食作りをしながら軽く掃除をしつつ、起きてきた子どもたちの学校の支度を手伝い、慌ててゴミを出し、そのときに初めて朝の空気を吸っていた。
だから、朝がこんなにすがすがしいものだと、異世界に来て初めて知った。
清澄な空気の中、香織は思いきり伸びをする。
「うーん、今日も気持ちいい朝だな……って、あれ?」
すがすがしい朝の空気の中に、長身の影がゆれている。
目を凝らせば、こちらに近付いてくる。
「
香織は思わず声を上げた。
心なしかふらふらした緑碧の袍姿は、間違いなく耀藍だ。
「どうしたんですか……って、耀藍様?!」
ふわ、と焚き染めた薫りが香織を包む。
耀藍の広い胸に抱きしめられていると気付いて、香織の心臓が早鐘のように鳴った。
「よよよ耀藍さま?! あ、あの……」
「香織……」
耀藍は香織の髪に顔を埋め、耳元でささやいた。
「腹がへった……」
香織の耳元でささやかれたのは、甘い言葉ではなかった。
「へ? お腹すいた? 耀藍様、御実家へ戻られてたんですよね?!」
抱きしめているというより力が出なくて香織にしなだれかかっている、といった様子の耀藍の肩をゆさぶれば、耀藍はじいっと香織を見下ろして、泣きそうな顔で言ったのだった。
「なんでもいい、香織が作ったものが食べたいんだよぅ」
♢
「おはよう、ってあれ?」
しばらくして起きてきた
「耀藍様、なんでもう朝ごはん食べてるんだ?」
「む、おばおう、おうえい、へいはん」
頬におにぎりが詰まっているので、変な発音になっている。
耀藍の傍らには、おにぎりがずらりと並んだザルが置いてあった。
「お腹すいたんだって。よくわからないけど」
竈から顔を上げた香織が困惑顔で言うと、小英も首を傾げた。
「え? だって耀藍様、きのうは蔡家に戻ってたんだろ? お腹すいたってどういうことだよ」
「考え事をするとだな、こう、腹が減るのだ……む」
耀藍はおにぎりを両手に持って食べ、喉がつまったらしい。青嵐が急いで水を湯呑で渡した。
「む……すまぬな、青嵐。そなたも食うか」
「いえ、俺はまだ」
「よくわからないけど大丈夫みたいよ。さっきはびっくりするくらい弱ってたんだけど、おにぎり食べたらすっかり顔色もよくなったし、どこも悪い所はないみたいだし」
「ふうん……蔡家って、ご飯の量が少ないのかな。耀藍様、おにぎり何個目だよ」
やや呆れた小英と青嵐をよそに、耀藍はおにぎりを食べ続けた。
「……で、また食うの?!」
たくさん野菜の味噌汁、青菜の胡麻和え、卵餡かけ豆腐、泡菜。
それらが湯気を上げる卓子に耀藍はうきうきと座った。
「当たり前ではないか。今からが朝食だろう」
「だってさっき、おにぎり食ってたじゃん!」
「あれはあれ、朝食は朝食だ。香織が作った物がこんなに並んでいるのに食わないわけがないだろう」
厨でいそいそとお粥をよそっている香織の背中を振り返りつつ、小英はジト目で耀藍を見た。
「はあ……耀藍様って、香織がいなきゃ生きていけないんじゃねえの? もしかして、腹へってもどってきたのも、蔡家の食事より香織の作ったご飯が食べたかったから、とか?」
ぶほっ、と耀藍がお茶を吐いたので青嵐がびっくりして飛びのいた。さすがの反射神経で危機一髪、布巾で卓子をさっと拭いてくれる。
「図星かよ……」
青嵐がこそっと小英にささやく。
「耀藍様って、香織とそういう仲なのか?」
「俺はそう思うけど、本人たちは鈍いっていうかなんていうか」
肩をすくめた小英にすべてを悟った青嵐は、苦笑して「いただきます」と手を合わせた。
華老師がふぉっふぉっふぉと笑う。
「なんじゃ、耀藍。日頃なまけておる分、蔡家で働かされたか」
「い、いや、きのうは姉上と話をしただけだ」
「まあ、おぬしの姉君と話すのは、なかなかに体力気力を使いそうだからのう」
笑う華老師に対し、耀藍は曖昧な笑みを浮かべている。
(耀藍様、やっぱり御実家で何かあったのかしら……?)
香織は少し気になった。
しかし大貴族蔡家のことに自分などが首をつっこむことなど畏れ多い、とそれきり忘れることにした。
だいたい、香織は蔡家からスパイ容疑が掛けられているのだ。香織が首をつっこんだら、耀藍に迷惑がかかるかもしれない。
(耀藍様が元気で、たくさんご飯を食べられているならそれでいいわ)
――あとになって、あのときもっと耀藍に話を聞けばよかった、と香織は後悔することになる。
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