第八十六話 耀藍の病、その名は


 食欲はあるようなのだが、耀藍の様子はどこかおかしい。

(具合が悪いんじゃなくて、何か悩みがあるって感じよね)


 夜市の帰り道に聞いてみよう、と思うのだが、いつもタイミングを見計らっているうちに華老師の家に到着してしまう。


 今日も結局、どうしようと思いながら華老師の家まで来てしまった。



「香織、すまぬがこれを」

 耀藍が持っていた蒸篭を香織に渡した。

「オレは今夜、実家に戻る。ちょっと用があってな」

「え、そうだったんですか?! てことはわざわざここまで送ってくださったわけで……す、すみません!」

「よいのだ。オレが香織を送りたかったのだ。気にするな」

「耀藍様……」

「ということで、残念だが夕飯はいらぬ。皆によろしくな」

「は、はい……」


 行きかけた耀藍の足が止まった。


「香織」

 振り返った耀藍が、ひたと香織を見つめる。


 アクアマリンのような瞳が熱を帯びている気がして、香織はドキリとした。


「は、はい、何か」

「今の生活は、幸せか?」

「え……?」

「たとえば、ここを離れてどこかに行くことは考えられるか?」


(もしかして耀藍様は、あたしを芭帝国へ帰してくれようとしているの……?)


 どうやら自分の転生先のこの美少女は隣国・芭帝国人の容貌をしているらしい。

 また、華老師の話では、この美少女には芭帝国の後宮にいた証の刺青がある。


 耀藍がそのあたりの事情をどこまで知っているかわからないが、ここを離れてどこかへ、というのは、そういう意味じゃないだろうか。


「わ、わたし……ずっと、ここにいたいですっ……」


 口をついて言葉が出てきた。


「どこにも行きたくありません。ここにいて、食堂や吉兆楼で、みなさんにずっとお惣菜を作りたいです!」


 華老師や小英や青嵐、明梓や辛好や杏々たち妓女、そして――耀藍。


 この世界にきて巡り合えた人々と離れるなんて、考えられない。


「だからずっと、ここにいたいです!」

 香織は叫んだ。


 翠碧の双眸が見開かれ、さびしげに――香織にはそう見えたのだが――笑んだ。


「……そうか。うむ、そうだよな」

「耀藍様……?」

「変なことを聞いた。すまぬ」


 耀藍は香織の頭を優しく撫でると、今度こそ振り返らず、宵の口の薄闇に消えた。





 蔡家、蔡紅蘭の私室。


 執務室の隣にあるこの部屋には、黒檀に螺鈿で鳳凰が意匠された見事な大卓子がある。

 その卓子の上に、五色と金で彩色された皿がずらりと並ぶ。

 皿の上には、ふんだんに贅を尽くした料理が湯気を上げていた。


「そなたが久しぶりに家で食事を摂ると言うので、厨の者たちがはりきっておった。存分に食べるがよい」

 上機嫌の紅蘭と対照的に、耀藍の表情は暗い。


「どうしたのだ? 食べぬのか」

「いえ……姉上」


 機嫌よく葡萄酒の杯を傾ける姉に、耀藍は言った。


「先日の話ですが、お断りします」

「先日の? ああ、あの異国の小娘を厨女として王城へ連れて行くという話かえ?」


 すでに王城へ入ることを許され、あとは吉日を選んで参上する、という段取りになっているのだが、耀藍の腰がいっこうに上がらない。

 業を煮やした紅蘭が、譲歩策として耀藍に提案したのが、香織を厨女として王城へ連れていく、というものだった。


「なぜじゃ。今のところあの小娘に害はないことはわかったのじゃ。問題はなかろう。あの小娘の料理が気に入っているのであろう? 食は生活の基本じゃからな。


 紅蘭は、耀藍の杯に手ずから葡萄酒を注いだ。西域の異国より取り寄せている、美味なれど滋養となる美酒だという。


「術師にとって、食事は何をおいてもおろそかにしてはならぬものだからのう。あの小娘を、そなたに用意された王城内の邸に、他の使用人と共に住まわせればよいではないか」

「…………」


 もちろん、香織の作る料理が食べられなくなることなど考えられないし、王城に香織を伴えるなら耀藍にとってこれほど嬉しいことはない。

 しかし、先ほどの香織の悲しそうな顔を見て、耀藍は決めた。


(今の生活に幸せを見出している香織を、オレの都合で王城へ連れていくことは……断じてできぬ)


 目の前には、耀藍の好物ばかりが並んでいた。以前なら喜んですぐにでも手を付けたであろう料理ばかりだ。

 蔡家の料理人は一流だし、事実これまで、耀藍は家の食事が国中でいちばん美味だと思ってきた。

 けれど今、目の前に好物が並んでいても、思うことはただひとつ。


(香織が作ったご飯が、食べたい……)


 湯気上がる豪勢な食卓を前に、耀藍は固まったままだ。

 紅蘭が呆れたように息を吐いた。


「どうしたのだ耀藍、腹の虫が鳴いておるぞ。まあとにかく食べろ。話はそれからだ。雹杏、取り分けてやれ」


 傍らに控えていた姉の筆頭侍女がてきぱきと料理を取り分けるのを、耀藍はぼんやり見ていた。

 箸を伸ばそうとするが、脳裏に香織の笑顔がちらついて、思うように口に運べない。

 耀藍は動揺した。

(腹が減っているのに食べれないとは……どうしたのだオレは! 病か? 病なのか? こんなことでは王城で務めを果たすことなどできないではないか……!)



「耀藍様は、御気分がすぐれないのでしょうか」

「ふむ……」


 心配そうな紅蘭と雹杏のささやきも、耀藍の耳には入っていなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る