第八十二話 夜の市場を二人で歩けば



 建安の夜市はとても幻想的だ。

 色とりどりの吊灯籠が店先に点され、夜闇の中、まるで異界に迷いこんだかのような気持ちになる。



「昼間よりお財布の紐がゆるみやすいのは、きっとそのせいよね……」

 香織こうしょくは、食器屋の店先でぼやいた。



「遠慮はいらぬぞ」

 隣に立つ耀藍ようらんが香織の頭にぽん、と大きな手のひらを載せる。

「欲しい物はすべて購えばよい。オレが全部買ってやる。おい店主、その器を三十個ほど包んで――」


 香織はあわてて耀藍の絹裾を引いた。


「耀藍様! ダメですって何度言えばわかってくださるんですか?!」

「なぜだ。無駄な物を買うわけではなし、よいではないか。食堂で器が必要なのだろう?」

「そ、そうですけど! つまりですね、わたしのお給金で買わなかったら意味がないってことで……」


 二人が小声で押し問答していると、店主が快活に話しかけてきた。


「奥さん! 気前の良い旦那じゃないか、芭帝国内乱のせいで不景気なご時世だってのにさ。せっかくだ、買ってもらっちゃどうだい?」

「お、おくさんって」「……だんな」


 香織は耳まで赤くなり、耀藍はやたらと咳払いをする。

 首をかしげる店主を残して、二人はそそくさとその場を離れた。



 閉店前の安売りや掘り出し物を求める客でにぎわう大路を、香織こうしょく耀藍ようらんは互いにあらぬ方を向きながらぎくしゃくと歩く。

 こんなときは人混みがありがたい。沈黙が気まずくない。


(わたしと耀藍様って、その、夫婦に見えたりするのかしら)


 ちら、と隣の耀藍を見れば視線が合ってしまい、あわてて目をそらす。


(まさかまさか! 身の程知らずの妄想だわっ。耀藍様は貴族なんだから……)


 香織はまだこちらの世界のことがよくわかってないが、貴族が社会の頂点にいることは理解できる。

 対する香織は、いまだ自分がどこの誰かもわからない状態だ。

 そんな自分が、貴族の耀藍と釣り合うわけがない。


(……ってちょっとまってわたし! 釣り合うとか釣り合わないとか……耀藍様だよ?!)

 香織にとって耀藍は、超絶イケメンのくせに大食漢な異世界のハリー・ポッター(こちらの世界では術師、というらしいが)、という位置づけ



 だった、と過去形なのは、耀藍に対する自分の気持ちが変わってきているのでは、と密かに気付いたからだ。

 その証拠に、すっかり恒例になった吉兆楼の帰りの寄り道がとても楽しみなのだ。



 華老師かせんせい小英しょうえいを待たせたくないし、香織の財布の中身も限りがある。

 だから普段欲しいと思っている物を見て周り、安ければ買い、何も買わずとも夕飯の食材だけは買って急ぎ家路につく、というあわただしい寄り道だ。


 けれどそんな短いひとときに香織こうしょくはウキウキするし、何も買わずとも耀藍ようらんといろいろ話しながら夜の幻想的な大路を歩くのは、控えめに言ってとても楽しい。



「そ、そういえば、青嵐せいらんはなかなかデキる少年だな」

 耀藍が唐突に口を開いた。

「青嵐の家は芭帝国の中では中級貴族、武門の家だったそうだぞ!」

「ど、どうりで!」香織も気まずさを払拭しようと話に乗る。

「青嵐は動きもきびきびしているし、小さいけど腕力もありますものね」


 食堂の配膳や薪割りなど、青嵐は驚くほど仕事が速く、正確だ。


「その代わり、じっと座って書を読むのは苦手だ、と言っていたな。小英はあんなことがよくできる、と」


 小英しょうえいは往診から帰ると、その日華老師かせんせいから教わったことや、自分で見聞きしたことを帳面に書いてまとめ、薬部屋に並んでいる医学書や薬学書を調べたり読んだりしている。西日が傾いてくるまでずっとだ。


「小英と青嵐は、あれで気が合うみたいですよ」


 同室で最初はいがみ合っていたが、今ではすっかり仲良しのようだ。

 小英と青嵐の楽しそうな笑い声が、夜によく香織の部屋にも聞こえてくる。


「文人系の小英に、武人系の青嵐か。いい組み合わせだな」

「そうですね。国の違う子たちとは、とても思えないくらい仲良しです」


 最初に青嵐と出会ったとき、野生の獣のような目をしていたが、今ではすっかり、いきいきとした子どもらしい輝きをとりもどしている。


「そういえば、芭帝国は内乱の最中なんですよね? 武門の家の子なのに、どうしてあんなひどい状態で避難してきたんでしょうか」

「うむ。どうやら青嵐は、父上の言いつけで家を守るために屋敷に残ったそうなのだ。青嵐の父上や兄たちは皆、戦で亡くなったらしい」

「そうだったんですか……お気の毒に」

「うむ。年少ながら、母上や姉妹たちを守って暮らしていたそうなのだが、戦禍が屋敷に及んでな。呉陽国へ逃げてくる途中の国境で戦に巻きこまれ、散り散りになってしまったそうだ」

「じゃあ、お母さんたちが無事かどうかわからないまま、一人で建安までたどりついたってことですよね。まだ少年なのになんてかわいそうな……やっぱり、戦争はいけません!」


 前世、広島や長崎へ行ったときに受けたショックから、香織は戦争というものは恐ろしい、ぜったいにしてはいけないことだと考えている。

 異世界であっても、それは同じことだ。


「しかも、同じ国の人同士で争うなんて早くやめればいいのに。偉い人たちが動かなければ、結局なんの罪もない庶民の犠牲が増えるばかりです。芭帝国の偉い人たちは何をやってるんでしょうか!」


 腹が立ってついぷりぷりと怒ってしまう。


「さっきの食器屋さんも言ってたじゃないですか。芭帝国の内乱のせいで不景気だって。塩屋の羊剛ようごうさんも、芭帝国との国境の治安が悪いから荷が滞って、塩の値が上がるんだってぼやいてましたよね。もうこの際、呉陽国の偉い人たちでもいいから、民を助ける対策を立ててほしいですよね!」

「ああ、そうだな。ほんとうに……香織の言う通りだと思う」


 熱弁をふるっていた香織は、ハッと顔を上げた。

「呉陽国の者でもよいのだ。人々のために、事態を解決できるなら……」


(耀藍様……?)


 耀藍はじっと前を見据えている。

 その表情の暗さが、香織は気になった。

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