第八十一話 国が軋む音


 耀藍ようらんは手に最後のおにぎりを持ったまま、動けなくなっていた。


「な、なんなのだ、あの子どもは……」


 黒髪をおかっぱに切りそろえ、赤い童衣装の可愛らしい少女が、向かいの小物屋の軒下からじいっと耀藍を見ている。 

 あれはたしか禿かむろという、妓女見習いの少女だ。


(むう、早く最後の一個を食べたい!しかし、あんなに見つめられては……)


 耀藍は思い切って禿かむろに話しかけた。

「ど、どうしたのだ? 腹が空いているのか? 食べるか?」


 言ってから「しまった! こんなことを言ったら食べたいと言われた時に断れないじゃないか!」と耀藍は内心頭を抱えたがもう遅い。

 禿はすぐに近寄ってきてしまった。


「う……やはり、食べたいのか……?」


 しかし禿は、おかっぱ頭をふりふりと横に揺らす。


「……姐さんが」

「んんん?」

「杏々姐さんが、お大尽さまがわけてくださりました、その食べ物を、たいそう気にいっていたのでござります」

「ああ、そういえば」


 前に、道端で倒れた妓女におにぎりを分けてやったことがあった。

 というか、全部食べられたのだが。

 あれは吉兆楼の杏々しんしんだったらしい。


「そうか、杏々は気に入っていたか」

「あい。あのときは、ほんとうにありがとうござりました」


 禿かむろはぺこりと頭を下げると、急ぎ足でとことこと去っていく。


「おい! ちょっと待て!」


 禿はだいぶ急ぎ足で立ち去っていたが、耀藍の足にはあっという間に追いつかれてしまった。


 真っ赤になって立ち止まる禿の前に、耀藍は目線を合わせるようにしゃがみ、その小さな手におにぎりを持たせてやった。


「いけませぬ」

 あわてて返そうとする禿の手に、しっかりとおにぎりを握らせる。

「腹の虫が鳴く音が聞こえたぞ。しっかり食べねば稽古もできぬであろう。吉兆楼では香織がまかないを作っていはず。食べていないのか?」

 禿は、じっと下を向いていたが、

「……姐さんたちに、たくさん食べてもらわなくては」

 と小さい声でぽつりと言った。

 耀藍はその意味を少し考えて、

「もしかして、食材が足りないのか?」

 問えば、禿は困ったように首をちょこん、とかしげた。

というお隣のお国から、荷が届かないそうでござります。でも、胡蝶様はみんなに食べ物をちゃんとわけてくださります。だからだいじょうぶなのでござります」

「なんと……」


 胡蝶のことだ。もちろん、店の者全員にいきわたるよう、食料の仕入れはしているのだろう。

 しかし芭帝国からの荷が滞っている状況では、限度がある。

 この禿のような育ち盛りの子どもには、配られる量が足りないのだろう。


 耀藍は、もう一度しっかりと、禿の手におにぎりを握らせた。


「オレはもう、腹がいっぱいなのだ。腹が空いている者に食べてもらったほうが、おにぎりも喜ぶ」

「オニギリ……」

「この食べ物の名だ。食べるがよい」


 禿はおそるおそるおにぎりを口に持っていって、ぱく、とひとくちかじる。

 それからはもう、小さな可愛らしい口をぱくぱくさせて、あっという間におにぎりはなくなった。


「美味かっただろう」


 禿はまだ口をもぐもぐさせながら、こっくりとうなずく。


「ほんとうに、ありがとうござります」

「うむ。しっかり稽古に励むのだぞ」


 あい、と頭を下げて、禿は心なしか足どりも元気に立ち去った。



「あのような小さい子に、食べ物がじゅうぶんにいきわたらないとは……」


 耀藍は眉をひそめる。

 そういえば、このところ、おそうざい食堂にくる子どもたちの中に、まったくどこの子どもかわからない、ひどく腹を空かした子どもがちらほらいるのを見かける。

 香織も気が付いていて、しかし黙ってその子どもたちに食事を出していた。

 彼らは、がっつくように食べると、いつの間にかふいっといなくなってしまう。


 建安じゅうから人が集まるようになってきた「おそうざい食堂」には、おそらく建安の城壁近くに野宿しているという、芭帝国からの難民も来ているのかもしれない。

 思えば青嵐せいらんも難民の子で、親兄弟知り合いもなく、食べ物を盗んで日々をしのいでいたという。


「内乱の影響が大きくなっているというのは、本当なのだな」

 耀藍は大きく息をついた。


 呉陽国は古来より外交に長けた、平和で豊かな国だ。

 海を持たず、周囲をいくつかの国に囲まれた呉陽国は、諸国との外交関係によって平和と豊かさを保ってきた。

 ゆえに、他国の内乱であっても、長引けば影響を受けやすい。

 特に芭帝国は、大陸でもっとも大きな国であり、荷の取引がもっとも多い国だ。


「クソバカ王め……!」

 花街からもその壮麗な外壁と屋根が見える、王城を睨む。

「早くなんとかしなくては、民が飢えてしまうではないかっ」

 国が内側からたてる音が、ひしひしと聞こえる。それは異能を持つ術師だからこそ聞こえる、異音。

 足元から伝わってくるようなその微弱な音に、このところ耀藍はひどく苛立っているのだ。

 そして、その音は気のせいではない、ということを確信する出来事があると、こうして苛立ちが増していく。


 しかし、この苛立ちも。

 なのは誰か、も。


 ほんとうは、耀藍自身が薄々わかり始めていたのだった。

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