第八十話 妓楼でもおにぎりは人気です


 杏々しんしんは翡翠の瞳を輝かせた。


「ほんとう? 作ってくれるの?」

「はい、もちろんです。杏々さんがそんなに気に入ってくれたのだったら、他の妓女さんたちも気に入るかもしれません。まかないで試作品として、出してみます」

「うれしい!」


 杏々は手をたたいて喜んでいる。


「さっそく作りますね!」

 香織こうしょくもうれしくなって、さっそく準備にとりかかった。


 香織がいつもより早く米を炊き始めたので、辛好しんこうは不思議そうに首をかしげる。


「なんだい、今日は米から炊くのかい。それに、いつもより多いじゃないか」

「ええ、今日はお粥と、それとおにぎりを作るので」

「オニギリ? なんだいそりゃ」

「辛好さんもぜひ食べてみてくださいね」


 炊いた米を鍋の底からしっかりと返し、まんべんなく空気をあてていく。


「なにやってるんだい。せっかくの炊きたてが、冷めちまうじゃないか」

「はい。ほどよく冷ましているんです。おにぎりは、その方が美味しくできるので」


 具が見当たらないので、ごま塩むすびにする。

 香織こうしょくが手に塩をのばしてご飯を乗せ、ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ、と次々に握っていくのを、辛好しんこうは目を丸くして見ていた。


「あの、よかったら辛好さん、ひとつ味見してくれませんか?」


 香織がおにぎりをお皿に載せて渡すと、辛好はじいっとおにぎりとにらめっこしていたが、観念したようにひとくち。


「……うまい」

「ほんとですか?」

 辛好の顔に笑みが広がる。

「こりゃうまい。不思議だね、あんたはずいぶん塩をぬったくってたから、正直死ぬほどしょっぱいんだと思っていたが、ちょうどいい加減だ」


 辛好はあっというまにおにぎりを食べた。


「おにぎり、というのかい。初めて食べたね。片手で食べられるのもいい」

「こうやって塩と胡麻だけ、も美味しいですけど、中に具を入れることも多いです」

「中に? 何かを包んで握るってことかい?」

「ええ。鮭や梅干しや、昆布の佃煮、お肉を入れても美味しいですよ」

「ウメボシ……? ツクダニ……?」


 辛好は首をかしげる。


(そうだった、こちらの世界には梅干しがないんだった)


 以前、立派な青梅を蔡家さいけで見かけたが、梅干しの話をすると雹杏ひょうあんに一蹴されたのだった。この世界では、梅をしょぱくして食べるという習慣がないらしい。


「なんにせよ、中に何か入れるってことなら、ますますいいね」

「はい、手づかみなので、ちょっとお行儀が悪いですけど」

 この世界の人々は、基本、ご飯を箸で食べる。

「でも、忙しいときや外出先では便利ですよ。具を入れれば、お惣菜を持ち歩く必要がないですし。きれいに手を洗えば、そんなにお行儀悪くもないと思います」

「うん、これはいいよ。あたしゃ気に入ったね」

 辛好はしきりに頷いている。

「お客様への御品書きに加えられるか、胡蝶に聞いてみよう」

「えっ、ほんとうですか?!」

「ああ、胡蝶は常に、新しい品書きを増やしたがっているからね」

「よかった! 杏々さんの希望で、今日はまかないに試作品として出してみようと思っているんです。胡蝶様にも食べていただきたいです!」

「それなら、明日はもっと作ったほうがいい。こりゃ、すぐに無くなるよ」

「そうでしょうか……あまったらどうしようかと思ったので」

「杞憂さね」

 辛好は快活に笑った。


 そして辛好しんこうの言う通り、おにぎりはそのビジュアルも妓女たちには珍しいらしく、胡蝶のぶんを取りわける間もなく、一瞬でなくなった。


「ねえ香織こうしょく! わっちたちもアレ、あの三角のご飯が食べたいわぁ」

「ごめんなさい、今日は試しに作ったので……明日はみなさんが食べられるように作りますから」


 すねた妓女たちをなだめつつ、香織はうれしくなる。


「んんっ、やっぱり美味しい! この絶妙な塩気がなんとも言えないのよねえ。香織、あしたはおかわり分もちゃんと作ってちょうだい!」

「はーい」

 杏々しんしんはご機嫌でおにぎりを頬張っている。


(おかわりを作るなら、もう少しご飯の量は減らして……具は、昆布の佃煮を持ってきてみようかな。あと、前に耀藍ようらん様が大量に持ってきてくれた海苔が湿気てしまいそうなだから、海苔も持ってこよう)


 耀藍ようらん小英しょうえい華老師かせんせいも、塩商人の羊剛ようごうも、この異世界でおにぎりを食べた人たちはみんな、おにぎりに魅了されている。妓女たちもだ。

(おにぎりのおいしさは、万国共通なのかもしれないな)


 香織こうしょくは、明日はいくつおにぎりを作ろうか、と計算しはじめた。







 その頃、香織が作ったおにぎりを頬張っている者が、花街の茶屋にもいた。


「うむ、やっぱりおにぎりは美味いな」

 耀藍ようらんは、つい一刻ほど前に華老師宅でおにぎりを食べたくせに、持参してきた三つをぺろりと食べる。


 いや、正確には、最後の一つを手に持ったところで、止まっていた。


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