第七十七話 干し肉はじんわり優しいトロほかメニューで



「おかえり、香織こうしょく!」 

 薬部屋で華老師かせんせいを手伝っていた小英しょうえいが土間へ下りてきた。


「ただいま! 小英、竈に火を入れておいてくれてありがとうね。すぐにお夕飯が作れるからすごく助かるよ!」

「へへっ、こんなことぐらいお安い御用だよ」


 言いながら、小英は戸口に立ったままの耀藍ようらんをいぶかしげに見上げた。


「耀藍様、なにしてるんだ? 白湯を居間に準備してあるよ」

「あ、ああ、いつもすまぬな。いやちょっと、気になることがあってだな」

「気になる?」


 小英しょうえいは耀藍と並んで立って、あ、と声を上げた。

 門扉の影から、こちらを窺っていた少年の顔がサッと隠れる。


「なんだあいつ。あやしい奴だな。俺が追い払ってきてやるっ」


 箒を片手に出ていこうとした小英しょうえい耀藍ようらんがあわてて止めた。


「いや、いいのだ。香織こうしょくがいいと言っていてな」

「香織が?」


 見れば、香織はブツブツひとり言をつぶやき、いつにもましていそいそと夕飯の準備をしている。


「えーっと、干肉はダシがよく溶けるトロトロほかほかのメニューがいいわよね。スープでしょ、あとトロトロほかほかなのは……あっ、サトイモがある!」

「そのサトイモ、夕方、近所の人たちが持ってきてくれたんだ」

「ちょうどいいわ! これでトロトロとほかほか、どっちもできる!」

「なあ香織」


 小英しょうえい香織こうしょくに並んで、サトイモを洗うのを手伝う。


「あいつ、なんなんだ? 追い払わなくていいのか?」

「あ、外の子? うん、たぶんだいじょうぶ。で、たぶん一緒にお夕飯食べると思うわ」

「ええっ?! あいつ、物乞いか何かじゃないの?!」

「わからないけど、お腹空いてるみたいなの。わたし、お腹空いた子って放っておけないのよ」

「もう、香織はお人好しだなあ」

「なんか事情もありそうだしね」


 少年は干肉の束を渡した香織こうしょくをつっぱねた。

 ただの物乞いなら、もらって逃げただろう。けれど少年はそうしなかった。


 少年なりのポリシーがあるようだった。空腹にも負けないほどのポリシーが。

 だから、香織は夕飯を食べさせてやりたかったのだ。


 やがて厨中に醤油のほんわかした匂いが漂い、「ごはんですよー」と香織が大きな声で知らせた。


 薬部屋にいた華老師かせんせい耀藍ようらんが出てきて、小英しょうえいがお膳立てをしてくれる。


 香織こうしょくは、外へ出た。


「ねえ、そこにいるんでしょ?」

「…………」


 返事はないが、門扉の裏で影が動いた。


「お夕飯ができたんだけど、一緒に食べない?」

「……んで」

「え?」

「なんでだよっ。オレは盗人だぞっ。鼻つまみ者なんだぞっ」


 夕暮れの薄闇に、少年はこちらを向いて立った。黄昏たそがれの空の逆光と少年の顔が煤けているせいで表情はよく見えない。


「そうなの?」

「……は?!」

「わたしは、さっき初めてあなたに会ったから、あなたが盗人かどうかわからないわ。名前、なんていうの?」

「あんた頭おかしいのか! 目の前で俺が捕まるの見てただろうが!」

「わたしは香織こうしょくっていうの。さっき一緒にいた背の高い人は耀藍ようらん様。さっき土間からのぞいていた子は小英しょうえいっていうの。あと、華元化かげんか老師せんせいがいるわ」


 少年は黙っている。


(やっぱり、この辺の子じゃないんだわ)

 難民か、呉陽国の他の地域から建安へ流れてきたのか、いずれにせよ華老師を知らないということは都になじみのある子ではないのだろう。


「あなたも入れて五人。あなたのおかげで手に入った干し肉だから、ぜひ一緒に食べましょ」


 香織は少年の手を取った。少年は抵抗しなかった。

 手を引かれるまま、おとなしく土間へ入ってくる。



「む、えらい汚いのう」

 華老師が土間へ下りてきて、竈で沸いている湯を使って手拭をしぼった。

「ほれ、飯を食うなら手と顔をぬぐえ。腹を壊してはいけないからのう」

「俺、ここでいいよ」

 少年は土間の縁に座った。

「部屋が汚れるから」


 ぶすっと答えた少年だが、華老師が渡した手拭でちゃんと手と顔をごしごしと拭いていく。


「ほう、きれいにすればなかなか良い顔をしているでないか」


 華老師の言う通り、少年は整った顔をしていた。意志の強そうなハッキリとした眉の下、大きな扁桃アーモンドのような双眸に、高く通った鼻筋。


帝国から来たのかのう」

「……なんで、わかる」

「顔つきがほれ、香織と似ておるからのう」


 少年はまじまじと香織を見上げた。


「わたし、こんなに綺麗な顔してますか?」

「ふぉっふぉっふぉ、そうか、そなた、食堂やら吉兆楼やらが忙しくて、いまだ鏡もロクに見てないんじゃな。耀藍ようらんよ、おぬし鏡の一つも香織こうしょくにやらなんだか」

「な、鏡だと?! オレがそんな品を贈ったら意味深であろうが!」

「ヘンなところでヘンな気遣いをする男じゃのう。いつも美味い飯を食わしてもらっている礼に鏡くらい贈ったとて、バチは当たらんじゃろうが」

「む、むう……」

「ほらほら冷めないうちに食べましょう。この子、お腹空いてるんだから」


 香織こうしょくは器を盆に乗せて、少年の前に置いた。


「今日は干肉と青菜と卵のスープ、干肉とサトイモと玉菜の炒め煮。おかわりも――」

 香織が話している途中でもう、少年は箸を取ってがつがつと食べ始めた。


「あっ、こいついただきますも言わねえで!」


 小英はぷりぷり怒っている。

 しかしスープを一口すすって、ほう、と笑顔になった。


「んんっ、美味いっ。干し肉のダシが卵と青菜によく合う!」

「このサトイモの炒め煮は甘辛で白飯がどんどん進むな!」

 耀藍は早くも白飯を一杯食べ終わりそうだ。

「サトイモを入れると味がよくからむので、ちょっと豆板醤を入れてみたんです」



 干し肉、サトイモを炒め、豆板醤を少し加えてじっくり炒める。

 豆板醤がよく炒められたら、玉菜を加えてザっと混ぜ、具材三分の一ほど浸る湯を入れる。

 干し肉が柔らかくなり、ダシがサトイモに染みるてくる頃には湯が煮詰まってきているので、そこに砂糖、酒、しょうゆの合わせ調味料を入れて煮からめる。


(智樹も高学年で辛い物に目覚めていたから、小英とこの子もきっと、ちょっと辛いほうが甘めなだけよりご飯が進むわよね)


 と思いつつ少年を見ると、少年は頬を食べ物でいっぱいにして――泣いていた。


「だ、だいじょうぶ?!」


 喉が詰まったのだろうか。香織はあわてて湯のみに水をくんでやった。


「サトイモが詰まっちゃった?」

 香織はそっと背中をさすった。その背中が震えている。


「……青嵐せいらん

「え?」

「俺、青嵐っていうんだ」


 少年の大きな双眸から、涙がぽたぽたと落ちる。


「逃げてくる途中で、家族とはぐれて……どうしたらいいか、わからなくて。建安まで、必死で歩いた。こ、こんな、こんなに美味い、あったかい飯は、いつぶりだろう……」


 香織こうしょく耀藍ようらん華老師かせんせい小英しょうえいは、顔を見合わせて、うなずき合った。

 全員、考えていることは同じようだ。


「お水、もっと飲む? あ、スープがもうないね。おかわりする?」

「おい少年、言っておくが、我が家の夜の白飯は争奪戦だからなっ。疲れた香織にもう一度米を炊いてもらうわけにはいかぬからなっ。おかわりするなら今のうちだぞっ」

「我が家って……おぬしの家ではなかろうが」

「へえー、珍しく耀藍様が人におかわりを譲ってる。あ、おまえ、青嵐って言ったっけ。飯食ったら、厨の後片付けをしろよ。その間に、みんなが風呂に入る。青嵐はかなり汚いから風呂、最後な。布団は俺が運んでおいてやるから」

「ほう、じゃが、物置の布団はだいぶ放っておいてあるが、だいじょうぶかのう」

「ないよりマシですよ、老師。明日には干しておきますから。てか青嵐、泣いてないで食えよ。冷めるぞ!」


 少年は「美味い……美味い」と箸を動かす。いっぱいにふくらんだ頬に、あとからあとから涙が伝った。

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