第七十六話 盗人小僧



 小英くらいの年頃だろうか。ぼろ雑巾のように泥まみれの少年だ。


「このやろう! またてめえか!」


 店の奥から太ったイノシシのような主人が猛烈な勢いで出てきて、少年の首根っこを捕まえた。

「今日という今日は許さねえ!」

 主人は見たこともないほど太い麺棒を持っている。

(野球のバットみたい……ってウソそれで叩くの?!)

 香織こうしょくがぎょっとした瞬間、主人は少年に向かって今にも麺棒を振り下ろそうとした!


「待って! そんなので叩いたら死んじゃいます!」


 香織こうしょくは思わず少年の前に出た。


「邪魔しねえでくれよお嬢ちゃん」

 店の主人はジロリと香織を睨む。

「この盗人小僧には何度も店の肉を持ってかれてんだ!」


 少年の汚れた手には、たしかに干し肉の大きな束が握られている。


「今日という今日は百叩きにしてから役所に突き出してやる!」

「わ、わたしがお使いを頼んだんです!」


 店の主人も、耀藍ようらんも、そして首根っこを押さえられた少年も、ぽかん、として香織を見た。


「そう、干し肉! わたし干し肉買おうと思って、この子にお使いを頼んだんです。ねっ、そうだよねっ!」


 少年は煤けた顔をぷい、と横に向ける。

 イノシシ主人はけっ、と少年を小突いた。

「お嬢ちゃん、あんたの親切には頭が下がるが、こんな奴ぁ放っておいた方が身のためだぜ。近頃、不景気だからな。食い詰めた家の子どもか、難民か、どっちにしてもタチが悪い」


 泥だらけの少年の姿に、異世界に転生した日のことが重なる。香織も馬車に轢かれたとき、泥だらけの薄汚れた姿だった。


(吉兆楼からのお給金、鍋を買い足そうと思って取っておいた分があったはず……)

 香織は懐のきんちゃく袋にごそごそと手を入れ、店の主人の前で銀子の包み紙を開いた。


「これで干し肉代、足りますか?」

「あ? お、おう、釣りが出るが」

「じゃあこれで。さ、行こう」


 香織は銀子を包み紙ごと主人に渡すと、少年に手を差し出した。


 少年は香織の手をじっと見ていたが、ぱっと立ち上がると一人ですたすたと行ってしまった。


「お、おい少年!」

「待って! あ、干し肉ありがとうございました!」

「あ? おい待ちなってお嬢ちゃん! 釣りがあるんだぜ!」


 香織こうしょく耀藍ようらんがばたばたと少年のあとを追っていくのを、肉屋の主人はイノシシが豆鉄砲を食らったような顔で見送った。





「なんでついてくるんだよ」


 南北大通りを下町の区域まで下ってきたあたりで、少年が立ち止まった。


「俺に恩を売ったつもりか? へっ、笑わせるなよ。俺はなあ――」

「いや、あのね、干し肉」

 香織こうしょくは少年の懐を指さした。

「干し肉。わたしが買ったものだから。返してくれる?」

「なっ……」


 少年は顔を真っ赤にした。


「アホかおまえはっ。俺はあの肉屋に盗みに入ってたんだぞ? はいそうですかって渡すと思うのかよ?!」

「でも、買ったのはわたしだから」


 香織はニコニコと邪気のない笑顔で手を差し出す。


「だから返して」

「うるせ……」

「返して?」


 少年はふてくされた顔で、干し肉の束を香織こうしょくに投げた。

 そして、くるりと踵を返す。

 その少年の肩に香織が手を置いた。


「んだよっ、返しただろうが――」

「食べ物を投げたらダメだよ」


 香織はニコニコと言った。干し肉の束の半分を、少年の手に押しつけながら。


「なっ」

「半分あげる。お腹、空いてるんでしょう?」


 ぐうううきゅるる、と悲しい音が響いた。

 無論、香織と耀藍ではない。


「うっ、うるせえよけいなお世話だよっ」

 少年は干肉の束を香織に突っ返した。

「親切ごかして近付いてくる奴にはロクな奴がいねえからなっ」


「なんというひねくれた子どもなのだ」

 耀藍ようらんは唖然としている。


「いらないの?」

「いらねえよっ」

「そう? じゃあ……行きましょうか、耀藍様」

「え? う、うむ」


 あっさりと歩き出した香織こうしょくの後を追いながら、耀藍ようらんはちらちらと肩越しに後ろを見て香織にささやいた。


「ついてきているぞ」

「そうですか」

「子どもとは思えん見事な尾行だな……オレが追い払ってこよう」


 耀藍の袖を、香織が引いた。


「いいです。そのままで」

「えっ、いいのか?」

「ええ。ついてきているなら、いいです」

「ついてきているなら?」


 逆じゃないのか、と思ったが、香織こうしょくが澄まして歩いていくので耀藍ようらんは気にしながらも放っておいた。


 少年は建物の影に隠れ、軒先の荷に隠れ、木立に隠れ、香織たちについてくる。

 とうとう、華老師かせんせいの家まで来てしまった。


「ただいま戻りましたー」


 香織はいつも通り言うなり、いそいそと厨で夕飯の支度にとりかかった。


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