第七十五話 おそうざい食堂に人手が足りません。



「ねえ、下町にある『おそうざい食堂』って知ってる?」

「ああ、聞いたことある。なんでも、ちょっと変わったお惣菜が出てくるらしいよ」

「甘い卵焼きとか」

「ええ?! 卵焼きが甘いって、どうなってるんだろう」

「でもそれが美味いらしいよ。で、すごく安いんだって」

「へえ、美味くて安いのか。ちょっと食べてみたいな」

「行ってみようか?」

「なんか椅子がすごい豪華らしい」

「そりゃあいいねえっ、椅子ってけっこう、大事だもんね。美味しい料理食べて、座り心地がいいなんて最高だね」

「やっぱり、近々行ってみようか」


 こんな会話が、市場を行き交う人たちから聞こえてくる。


 夕暮れどき、建安の市場はにぎやかだった。

 吉兆楼を出た香織こうしょく耀藍ようらんは、市場に来ていた。

 この頃では帰りに市場をのぞいていくことが多い。


「こ、こんな都の中心部でも話題にしてもらえるなんて……」

 香織はうれしさに、会話をしていた人たちを後ろから拝んだ。

「うむ。オレが持ってきた椅子の評判も上々だ。美味い料理には良い椅子が不可欠だからな」


 耀藍ようらんのドヤ顔にも、香織こうしょくは神妙に同意する。


「ええ、とってもありがたく使わせていただいてます!」

「そ、そんなに素直に感謝されると、だな」

 耀藍は咳払いする。ただただ純粋な香織の笑顔がまぶしい。

「耀藍様が椅子をたくさん持ってきてくださらなかったら、あんなにたくさん人が入るようにならなかったですし」


 今では近所の人たちだけでなく、噂を聞きつけた人たちが建安のあちこちからやってくる。

 それに伴って、少しお勘定をもらうことにした。近所の人たちは今まで通り食材を持ち寄るスタイルだ。

 お勘定をもらうことで食材費が出るようになったので、量も品数も作れるようになったのだが。


 

「たくさん人が来てくれて、とってもうれしいしありがたいけれど……手が回らなくなることがあって」



 香織は表情を曇らせる。


「きのうも、小さい子連れのお母さんたちのお手伝い、途中までになってしまったんです」


 赤ちゃんと小さい子を連れた親子が来たときは、香織は必ず上の子の食事介助を手伝うことにしている。

 そうすれば、母たちはゆっくり食事ができるからだ。

 けれど昨日は、卵焼きの注文が多かったために竈から離れられなくなり、食事介助の手伝いを断念したのだ。

『いいよいいよ、気にしないで早く行きな!』

 母たちはそう言ったが、香織はずっとそのことが心に引っかかっていた。


「ああ、たしかに、オレがもどってきたとき、子連れの母たちが何やら奮闘していたな」


 午前中、耀藍は華老師宅の自室で二度寝をしているか、実家へもどって大量に食材を持ってきてくれるか、どちらかのことが多い。



「しかし、オレが手伝おうかと言ったら、とんでもない、と断られたが?」

「それは耀藍様に遠慮しているんですよ。耀藍様は仮にも貴族なんですから、いくら耀藍様だって近所の人たちもさすがに言えないこともありますよ」

 香織はさみしそうに微笑んだ。

「私にも遠慮しているんですから、お母さんたちは」

「遠慮など無用だろう。こちらが助けると言っているのだから、助けてもらえばいいんじゃないか?」

「小さい子のお母さんというのは、いつも心の中で戦っているんですよ。誰かに助けてほしい、でも助けてもらうのは悪いことなんじゃないかって」


 小さい子を抱えてほんとうに困っているときは、見ず知らずの通りすがりの人にでも「すみません、ちょっと抱っこしていてもらませんか。ほんの30秒でいいんです」と喉まで出かかる。

 でも、それが言葉にできたことが何度あっただろう。

 どこかで、子どもの世話を誰かに頼むことに罪悪感がある。

 自分は怠けているんじゃないだろうか、母としての役目を果たせてないんじゃないか、と。


「だからこそ、一度差し伸べた手は引っこめたくないんです。引っこめられると、お母さんたちは、ああやっぱり誰かに頼ってはいけないんだ、という思いが強くなる。絶望しちゃうんですよ。周囲ではなく、自分にね」

 耀藍が目を丸くした。

「絶望などと、大げさな」

「そういうものなんです。子育てって、ほんわかな日常に見えて、けっこう自分とも子どもとも、戦っているんです」


 どこか遠い目になった香織に、耀藍はハッと目をみはる。


「こ、香織は、たしか16だったな?」

「? ええ、そうですけど」

 この身の正確な年齢はわからないが、16歳くらいだろうと華老師に言われている。


「16……じゅうぶん考えられるな」

「?」

「香織!」


 耀藍が、がっしりと香織の肩をつかんだ。


「は、はい」

「も、ももももしかして、け、けけ結婚してるのか?」

「……はい?」

「こ、ここ子を、授かっていたり、す、すするのか……?」


 

 きょとん、と耀藍を見上げた香織は、ぷっと吹き出した。


「なに言ってるんですか、そんなわけないじゃないですか」

「ほ、ほんとうか?!」

「ええ」

(たぶん、だけど)

 華老師によれば、香織の首の後ろには芭帝国後宮の妃嬪であることを示す印が入っているそうだが、この美少女はいまだ乙女であろうと香織は思う。

 今は我が身、毎晩お風呂にも入っていることだし、それはまちがいないと思う。


(いけない、つい前世の記憶のままにしゃべっちゃう)

 香織の話は、前世の日本に暮らす43歳二児の母の主婦そのもの。

 耀藍がかんちがいするのも無理はない。


「ほ、ほら、食堂に来てくれる親子連れを見て、わたしもいろいろと考えるってことです」

「そう、か……そうか」

 耀藍はなぜかホッとしている。

「もう、急に変なこと言わないでくださいね!」

「変なことではないぞ。香織の言いようは、まるで子どもを持つ母そのものに聞こえてだな、その、もう結婚しているのか、とか子がいるのか、とか思ってしまったわけでだな」


 耀藍はごにょごにょ言い口をとがらせる。なぜだか、機嫌を損ねたらしい。

 香織は「しょうがないなあ」と思いつつ、


「あ、耀藍様! 美味しそうなかたまり肉ですよ! あれを買って叉焼チャーシューでも作りましょうか?」

 肉屋の店先にぶら下がる桃色の肉塊を指させば、「おおっ、いいな、叉焼!」とすぐに乗ってきたのでホッとする。


 香織と耀藍が肉を買おうと、店に近付いたときだった。

「うお?!」

 耀藍がヘンな声を上げてしりもちをついた。


「な、なんなのだ一体……」

「いってえ……」

 見れば、同じくしりもちをついたらしい少年がいる。耀藍とぶつかったらしい。


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