第六十三話 「いつも通り」に感謝する
「帰りも疲れていれば移動術を使うゆえ、遠慮はいらぬ」
そう言って、耀藍はひいきのお茶屋へ向かった。
それを見送り、香織も中庭を抜け、厨へ入る。
厨の中にはすでに火が
まるで昨日の騒動などなかったかのように、いつも通りだ。
「こ……こんにちは、辛好さん!」
香織も、思い切っていつも通り挨拶をしてみる。
「……ああ」
香織は目を見開いた。
(辛好さんが、返事をしてくれた!)
しかし香織としては、自分のせいで辛好に迷惑をかけたという思いがある。
昨日の夜は、出してしまった酢の物の交換や、「直し」た酢の物を出すことに追われ、辛好と話す時間がなかった。
(ちゃんと、謝らないと)
「
「余計なおしゃべりしてるヒマはないよ! いつもどおり、野菜を洗うことから始めるんだよ!」
辛好がいつも通り怒鳴る。
「は、はい!」
香織が洗い場で野菜の泥を落としていると、辛好が香織の後ろに籠を一つ置いた。
「あの、辛好さん、これは……?」
「まかない用の野菜だよ! 作るんだろ、あんたが。胡蝶から聞いた」
「はい、あの……」
「任せたよ」
「は……はいっ!」
この場で「任せた」の一言は、香織にとっては最高の誉め言葉に等しい。
(辛好さんがまかないを任せてくれるなんて……!)
一品作れ、とか、下ごしらえをやれ、とかだと思っていたのに。
籠の中を見ると、すでにきちんと泥を落として洗ってあるほうれん草と大根、それと、大きなキノコが入っている。
どれも新鮮そうで、ほうれん草は青々として葉や茎がぴんとしるし、大根は柔らかそうだ。
キノコはジャンボマッシュルームのようだが、色がきれいなピンク色をしている。こちらの世界特有の食材だ。
「まかないは、その日に市場で最も安かった野菜を仕入れて作る」
辛好が、後ろから声をかけた。
「は、はい!」
(つまり、旬の食材ってことね)
「仕事の合間に、片手間で作る。厨にある調味料、豆腐は好きに使っていい。肉、魚はあたしがいいと言ったら使っていい。今日は鶏肉があまるから、そこの保存庫から出していい」
吉兆楼の厨にも、
「ありがとうございます」
(お肉も調味料も使えるなら、さっきの食堂のトロトロ煮を大人向けにもう少し辛くして発汗作用を加えて、油を控えめにカロリーを押さえるようにして、それから青菜は鉄分補給のためにたっぷりり食べてもらえるようにして……)
香織は頭の中で、献立をどんどんアレンジしていく。
「まかないは、あたしとあんたで味見をして、大丈夫なら妓女に配る。商品である妓女が腹痛を起こしちゃ困るからね。いいかい、味見する前に配るんじゃないよ」
「はい!」
「くれぐれも指示された仕事の合間にやるんだ。いいね?」
「はい!」
「できたら教えな」
いつも通り。
それがどれほどありがたく、大変なことか。
日々の暮らしの中、いつも「いつも通り」というのは、実はとても得難いものだ。
妓楼という場所では、特にそうだろう。
辛好は、そのことをよく知っているのだ。
香織に謝らせないのも、言葉は少ないけれどポイントを押さえた助言も、辛好の言動からは「いつも通り」を貫こうとする堅実さと優しさが感じられる。
(ありがとうございます、辛好さん)
心の中で呟き、香織は自分の竈の火を熾し始めた。
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