第六十四話 記憶の中の、青菜の胡麻和え
「入りますね、
杏々は、中庭の奥にある別棟の自室にいた。
吉兆楼三姫の一人である杏々は、一人部屋を持っている。
白い上質の
(きっと、まだ寝ているのかもしれないわね)
そう思って、
「よけいなことしないでよ」
褥から、低い呟きが聞こえた。
「杏々さん、起きてるんですか?」
「昼は食べないんだから。持って帰ってよ。そのにおい、胸が悪くなるわ」
「杏々さん……」
きつい言葉とは裏腹に、鳥ガラのような杏々の後ろ姿が痛々しい。
すると、大きな翡翠色の双眸が褥の中からキッとこちらを睨んだ。
「ほんっとあんたって気色悪い。なにじろじろ見てんのよっ」
「杏々さん」
「なによっ、早くその臭い物をどっかへやってよっ」
「ちゃんと、食べてますか?」
「……は?」
「ゴハン。ちゃんと、食べてますか? 無理なダイエットをしていると、痩せにくい体質になるし、貧血を起こしやすくなるんですよ?」
「だいえ……? なにわけわかんないこと言ってんのよ! ていうか、大きなお世話よっ」
「必要な栄養を取ったほうが、健康的に痩せられますよ。これ、わたしが作ったんです。食べても痩せられますから、よかったら食べてみてください」
香織は、そっとお盆を差し出した。
「なによっ、こんな物っ」
白い繊手がひらめいて、美しい目の畳に椀や小皿が転がった。
「さっさと出ていきなさいよっ」
「畳がっ……」
香織は持っていた布巾で畳をぬぐい、せっせと椀やこぼれた食べ物を片付ける。
「やめてよっ、
肩で息をする杏々を、香織はじっと観察した。
(ちょっと大きい声を出しただけでこんなに息切れして……やっぱり、身体に無理がきているんだわ。興奮させないほうがいい)
そう判断した香織は、黙って頭を下げると部屋をあとにした。
「なんなのっ、あの女……!」
香織が出ていった扉を睨む目に、不安が揺れる。
どうして、自分が貧血なことが、わかったのだろう。
少し前、調子がおかしいと思い、馴染みの客の中にいた医師にそれとなく聞くと、「君は貧血だなあ」と言われた。
「無理な減量をしているんじゃないのかね?」とも、そのとき言われた。「無理な減量をすると五臓六腑の均衡が崩れて、身体の調子が悪くなるぞ」とも。
「どうして、あの女にそのことがわかったの……?」
自分が減量をしていることは、食事を運ばせている禿にしか知られてないと思っていたのに。
「もう少し、あともう少しなのよ……!」
もう少しお金が貯まれば、故郷の弟を勧学院へ行かせてやれる。
少し前、偶然、暑さにあたって痩せたら、指名が多くなった。「細い腰が舞うときに美しい」と指名がたくさん入るようになった。
だから、もっと痩せようと思った。
もっと痩せて、もっと指名を増やして、ぜったいに弟を勧学院へ行かせてやる。
「あの子はあたしと違って、頭がいいんだ。飲んだくれの父親の代わりに野良仕事をして終わっていい子じゃないんだから!」
そのために、昼は当然のように食べないし、夜もお客の御相伴を少しだけするくらいだ。
まともにご飯を食べたのはいつだったか、もう思い出せない。
禿を呼ぼうとして、ふと呼び鈴に伸びた手が止まった。
「青菜の、胡麻和え……」
お皿から畳にこぼれ落ちた鮮やかな青菜。
胡麻の香ばしい香りが、鼻をくすぐる。
弟や小さい弟妹たち、母の笑顔が、脳裏に浮かんだ。
病気になってしまった母親が、畑に出れない代わりにせめて厨をやりくりしようと、青菜をよく、近所の人たちに分けてもらっていた。
弟が、市場で野菜の売れがいいと買ってきてくれる胡麻で、青菜を胡麻和えするのが、あの頃、いちばんのごちそうだった。
あの日――父親が借金のカタに、杏々を売ってきて、その金を持って行方をくらませてしまった日の夕飯も、青菜の胡麻和えだった。
次の日には、高利貸が杏々を迎えにくる。
「こんな夜なのに、ご馳走をたべさせてやれなくて、すまないねえ」
母は泣きながら胡麻和えを作ってくれた。弟も、その隣で泣いていた。
「う……」
自分は、いつから食べ物を粗末にする人間になってしまったのだろう。
がく、と腕の力が抜けて、身体が崩れ落ちる。
この頃、自分の体重を自分で支えられなくなるときがある。少し前、買い物へ行って倒れたときに、気が付いていた。
このままだと、まずいということに。
「天罰だ。きっと。食べ物を、粗末にしたことの……」
日々の糧さえまともに得られなかった故郷の日々を思えば、自分はなんという贅沢な暮らしをしていることだろう。
弟を、勧学院へ行かせてやりたい、なんとしても。
しかし、こんなふうに、青菜の胡麻和えを粗末にして稼いだ金だと知ったら、弟はどう思うだろうか。
細い手首を見る。手が、震えている。涙が出ているから震えているのか、か細くなった体が弱っているからなのか、わからない。
「ふ……う……」
力の入らない体で必死に這いつくばって、杏々は小皿や椀に、食べ物をもどしていく。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
我知らず、杏々は呟いていた。
そうして、転がっていた箸を手に取って、震える手で青菜の胡麻和えをひとつまみ、口に入れた。
「美味しい……」
胡麻の香りと、青菜の青い旨味が、口いっぱいに広がる。
その一口の滋味が、身体中に広がっていくのを感じたとき、杏々は大きく頷いた。
「あたしは、この吉兆楼の三姫なんだ。しっかりしろ……あたし!」
そうして、呼び鈴に手を伸ばす。
「およびですか、杏々姐さん」
やってきたおかっぱ頭の少女が、ちんまりと頭を下げた。
「すまないねえ。粗相をしてしまって、畳を拭いてくれるかい?」
「あい」
禿は、持っていた布巾を水でしぼって、丁寧に畳みを拭き上げてくれた。
杏々は飴玉と駄賃の包みを禿に渡してやる。禿は、うれしそうにはにかんだ。
「ありがとうござります」
「こちらこそ、ありがとうね。もう一つ、お願いしてもいいかい?」
「あい」
「厨にいる
「あい、ただいま」
禿は、扉を静かに閉めると、中庭へ向かってぱたぱたと走っていった。
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