第六十一話 大根の甘味噌焼きは胸きゅんのち怒り
「おおっ、今日はなにやら香ばしい匂いがするな」
午前中の二度寝から、
「これはなんの匂いだ?」
「ああ、これ? 大根の甘味噌焼きの匂いですよ」
軽く下茹でした二センチ厚さの大根を炒め、そこに酒、みりん、味噌、砂糖を練った甘味噌を加え、煮詰めていく。
甘味噌がくつくつと煮詰まり、甘辛い香ばしい匂いが土間中に広がっていた。どうやら、耀藍の部屋のほうまで届いていたらしい。
「耀藍様、まだ寝てていいんですよ」
「おお、珍しく
「わ、わたしはいつも優しいですよっ。それに……昨日はわたしのせいで遅くなってしまいましたし……」
吉兆楼を出たのは、もう真夜中に近い時間だった。
帰り道は少し顔色が悪く、言葉少なだった耀藍に、香織は心から申しわけないと思ったのだ。
(きっと、ずっとバタバタしていた辛好さんとわたしの邪魔をしないように、厨の隅でおとなしくしてたんだわ)
いつものように「味見をさせてくれ」などと香織の周りをウロチョロせず、じっと耐えていてくれたのだろう。
その
「ほんとうにありがとうございました」
その優しさが、最近では気になって仕方がないほどに。
「オレは香織の見張り兼、護衛だからな。気にするな」
土間に下りてきた切れ長の目が、優しく笑んだ。
(そ、そんなに近寄らないで……心臓がドキドキしてるのがバレちゃうよ……!)
胸がきゅんきゅんする甘い痛みに耐えていると、耀藍がうれしそうに言った。
「おかげで久しぶりに
「……はい?」
投壺とは、前世で言えばダーツのような遊びだ。
この世界では大人から子どもまで、街のいたるところで投壺に興じている場面を見かける。人々に愛されている
吉兆楼でもお客さんたちが楽しんでいるのを、多く見かけた。
ただし、そこはやはり妓楼。
負けたら酒杯を干すか、着ている衣装を一枚ずつ脱ぎ、下着一枚になったら今度は用意された衣装を一枚ずつ着る、というスリル満天の遊びらしかった。
つまりは一気飲みと野球拳だ。
どの座敷にも、負け続けてベロベロになったお客や、かなりキワドイ姿になった妓女をひやかすお客がひゅーひゅー盛り上がっていたのを、香織は酢の物を交換する作業をしつつ見かけたのだ。
「……耀藍様、投壺をやってたんですか? いつの間に??」
「うむ。厨につっ立っていたら、辛好さんに追い出されてな。仕方なく玄関広間へ行ったら、いつの間にか座敷に連れていかれてな」
(そりゃそうでしょうよっ)
耀藍が妓女たちの集まる玄関広間に行けば、放っておかれるはずがない。
「オレは投壺が強いのだ! が、昨日は珍しく負けて、ちと酒を飲まされ過ぎてな。
「そ、そんなに?!」
「まあそれで少し、気分が悪くなったが……」
(顔色悪かったのってそれですか?! さんざん遊んでたってことですか?!)
一瞬前までの胸きゅんはどこへやら、香織の心臓は急速に冷めていく。
「ま、オレは
伸びてきた大きな手を、香織はぴしゃりと叩いた。
「ダメですっ、ぜっったいダメ!!!」
「なっ、なぜだ、なんか急に厳しくなったぞ香織! オレは何か悪いことをしたか??」
「別に何も! さっきも言いましたけど、わたしいつも通り優しいですよっ」
ぷりぷり怒って――自分でもなぜ怒っているのかナゾなのだが――香織は並んだ鍋の中の様子をひとつひとつ確認していく。
今日の献立は、
豆腐と卵とキノコのトロトロ煮 青菜の胡麻和え 大根の甘味噌焼き
汁物がないのは、豆腐と卵のトロトロ煮にスープが多いからだ。
今日の食堂のメニューは、吉兆楼のまかないメニューを考えながら決めた。
(
香織は医師ではないが、主婦として母として、家族の健康を守るために『家庭の医学』をボロボロになるまで読みこんだ。
その知識を引っぱり出してきてみるに、杏々は慢性的な貧血、それも栄養不足に因るところが大きいと思われる。
(妓女としての美しさを保ちつつ痩せたい、という
食べて健康だからこそ痩身が保てる、ということを、杏々や、他の妓女たちにも知ってほしい。
(きっと、他の妓女たちも、多かれ少なかれ同じことを考えているはずだもの)
吉兆楼の頂点に立つ杏々がちゃんと食べるようになれば、他の妓女たちも三度の食事をきちんと食べてくれるに違いない。
――働いてエネルギーを消費している彼女たちならば、ちゃんと栄養を考えた食事を摂れば、健康的に痩せられる。そのために、まかないを作ってあげたい。
初めて吉兆楼に来たとき、杏々や妓女たちのあまりに細い姿を見て、思ったことだった。
それが、思わぬ形でやらせてもらえることになった。
「わたし、転生したことといい、
前世では有り得なかった自分の強運に、香織はあらためて深く感謝していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます