第六十話 騒動の後始末と香織の提案


香織こうしょく! 大丈夫か!」

 耀藍ようらんがすぐに香織のそばへ寄り、ふところから布巾ふきんを出して、香織の腕の傷に当てる。


「耀藍様、布巾が汚れてしまいます……!」

「かまわぬ。巻くからじっとしていろ」


 いつもの悠々とした所作からは信じられないくらい、耀藍が素早く香織の腕に応急処置をするところを、胡蝶こちょうは呆然と見ていたが、

「なっ、なんでかばうのよ?!」

 香織の手を引いて、立ち上がるのを手伝う。

「あんたは、杏々しんしんに陥れられたんだよ?!」


 けぶるような睫毛に彩られた目には、怒りや苛立ちが燃えている。

 その目を静かに見つめ返して、香織は言った。


「……胡蝶さん、さっき、親だと思ってるって言ってましたよね。杏々さんたちは、子どもみたいなものだと」

「そりゃ言ったけど」



「親だったら、怒りに任せて子どもを叱ったことを、きっとすごく後悔するから……」



(前世、イライラして子どもたちを叱った後は、必ず自己嫌悪だったもの)

 智樹と結衣が小さかった頃は、毎日が自己嫌悪の嵐だった。

 あるとき、近所の保育園に遊びに行けるイベントがあって参加したときに、保育士さんに言われたのだ。

『イライラして怒っちゃうって、子ども相手じゃなくてもよくあることでしょ? それは人間として普通の感情だから、ご自分を責めなくてもいいんですよ』

 その言葉に当時の香織はとても救われた。

 それ以来、その言葉を心に刻んで子どもたちに接してきた。

 だから、胡蝶にも伝えたかったのだ。

 親として一生懸命であればあるほど、子どもをより良く育てたいと思うほど、叱ってしまう。けれど、折檻をすれば、きっと子だけでなく親も痛い。

 一生懸命に妓女たちに向き合っている胡蝶に、痛い思いはしてほしくない。 


 その一心から出てきた言葉だった。


 胡蝶こちょうの双眸が、大きく見開かれる。

香織こうしょく、あんた……」

 香織は、布巾を巻いてもらったばかりの腕を上げて、にっこりと笑ってみせた。

「その後悔の痛みに比べれば、こんな傷はぜんぜん大したことないです。だから気にしないでください」



 香織は、今度は再びしゃがんで、杏々しんしんの顔をのぞきこんだ。



「杏々さんたちは、わたしのことが嫌いだったんですね」

 杏々はうつむいたままだ。身体が小刻みに震えている。

「ごめんなさい。きっと、わたしの何かが、お気に障ったんでしょうね。気が付かなくて、ごめんなさい」


 涙にぬれた目が、キッと香織を睨みつけた。


「あんたなんか……あんたなんか!!」

 杏々は香織を押しのけるように、勢いよく立ち上がった――立ち上がろうとしたのだが。

「杏々さん?!」

 一歩踏み出した杏々の身体が、ぐらり、とかしいだ。


(なんて軽い……!)

 支えた香織の方が背が低く華奢なはずなのに、杏々をちゃんと支えられている。

 それほどに、杏々の身体は痩せ細っていた。


「う…………」

 杏々の顔色は青く、目を閉じて苦しそうにしている。

 その様子をサッと確認した香織が、胡蝶を見上げた。

「貧血です、たぶん。どこかで休ませることはできますか?」

「わ、わかったわ。今、男衆を呼ぶから」


 胡蝶は懐から瀟洒しょうしゃな鈴を出すと、りん、と大きな音で何度か鳴らした。

 すぐに、黒づくめの男たちがやってくる。先刻、香織と耀藍をここまで連れてきた顔ぶれとは違っていたが、やはり筋骨隆々としたたくましげな男たちだ。

「へい。姐さん、お呼びで」

「杏々が倒れたから、休憩部屋へ運んでおくれ」


 男たちは素早い動きで、あっという間に杏々を担ぐと、厨を出て、店の中へ入っていく。

「追います! 耀藍様」

「ああ、オレはここで待っているから、行ってこい」

「はい!」


 香織は男たちの後を追って、店の中へ入った。





 寝台に横になった杏々は、力無くぐったりしている。

 はだけた薄桃色の長裙と上衣を整えながら、胡蝶こちょうが眉を寄せた。

「いつからこんなにガリガリになったのよ……」


 体質なのだろう、豊満な胸元はさほど肉が落ちていないのに、手足や腹回りばかりがげっそりとしている。


「これでは、衣裳を着ていたらわからないと思いますよ」

 香織こうしょくは杏々の身体を見て、前世、拒食症になった同級生を思い出した。


「胡蝶様、杏々しんしんさんは、なにか仕事のことで悩みがあったり、好きな人のことで悩んでいたりしますか?」

「……いいえ、そんな話は聞かないわ。杏々はあまりおしゃべりではないけれど、悩みがあればあたしには言うと思うの」

 そう言ってから、胡蝶は、「そういえば」と顔を上げた。


「この子には、故郷に三つ違いの弟がいてね。その子が優秀だから、ぜったいに勧学院かんがくいんへ行かせたい、そのためにお金が必要だから、もっとがんばって稼がなきゃ、って言っていたわ」



 勧学院とは、前世でいえば大学のようなものだ。香織の転生先であるこの美少女の記憶からそれがわかった。


 国の役人になるには勧学院へ行く必要があり、勧学院に入るには超難関国家試験を突破しなくてはならない。

 そのためにはたくさん勉強をしなくてはならず、書物代や試験期間に建安に宿泊する代金など、莫大なお金がかかる。

(昔の中国で言ったら科挙、日本で言えば東大を目指すみたいなものかしら。お役人になれれば、生活が安泰だから、みんな勧学院を目指すんだわ……)



「それと、少し前に『身体が細いとお客さんウケがいい』って杏々が言っていたことがあったわ。踊りを舞うときに、細い方がより優美な動きに見えるって。それで、お客さんがお小遣いをたくさんくれたって……」


 それだ! と香織は思った。


「杏々さん、きっと、弟さんの受験資金を作るために、もっと細くなって、もっと特別手当をいただいて稼がなきゃ、と思ったんじゃないでしょうか」

「バカだねえ、身体を壊しちゃ、元も子もないっていうのに……」


 白い枝のように細い杏々しんしんの手を、胡蝶がゆっくりさする。

 その目尻には、光るものがあった。

 杏々を娘とも思っているのなら、胡蝶の心痛はいかほどのものだろう、と香織こうしょくも胸が痛んだ。


「胡蝶様。きっと、杏々さんが――杏々さんたちがわたしのことを追い出そうとしたのは、わたしが彼女たちのお仕事の邪魔になると思ったからかもしれません」

(忘れてしまいそうになるけど、今のわたしは16歳の異国風美少女だから……)


 もっと稼がなくてはならないときに、新入りの、しかも売れっ子になりそうな美少女が突然やってきたら、焦るのは当然だろう。

「だから、杏々さんたちのこと、お許しになっていただけませんか」


 胡蝶は驚いたように香織を見上げて、それから突然、床に平伏した。

「胡蝶様!?」

「あんたを疑って申しわけなかった。この通り、許しておくれ」

「そんな……顔を上げてください!」



 香織はオロオロと、しかし神々こうごうしいまでに綺麗な胡蝶の身体に触れていいものかどうか。

 胡蝶を起こそうとする手を右往左往させ、香織はきまり悪そうに微笑んだ。


「わたしもいけなかったんです。だってきっと、辛好しんこうさんが出かけた後で、杏々さんたちは酢の物にイタズラをしに来たんですよね? わたし、作業に没頭していたのと……実は、歌を歌っていたので、気付かなくて。それって、留守番として失格じゃないですか。だからわたしにも非があるんです」

香織こうしょく……あんたって子は……」


 胡蝶は、顔を上げて香織の手をぎゅっと握った。


「最初はあんたのこと、きっと厨仕事なんてすぐに嫌になるだろうから、すぐ座敷に出そうと思っていたの。でも、あんたは、ほんとうに厨仕事が好きなのね」

「はい!」香織は即答する。



「わたし、お料理が好きです! 作ったものを食べてもらえて、『おいしい』って言ってもらえたら、最高に幸せです!」



 心の底から出てきた言葉に、香織は自分でも驚いた。

(そうよ、前世でも、わたし料理が好きだったし、作ったものを食べてもらえることが喜びだったんだもの)

 主婦・織田川香織としての人生は終わってしまったけれど、転生して、別のカタチでその思いをじゅうぶんに発揮できている今が、香織はとても心地よい。



「考え直す気はない?」

 胡蝶が気づかわし気に香織をのぞきこむ。

「妓女の方が、お給金がいいの。ああ、安心してね、うちは春を売る店じゃないから。もちろん、そういうことが無いとは言わないけれど、それはお客様と妓女との同意の上でのことだし、もちろん身請けもある。ただ、多くのお客様は妓女たちの芸を楽しみに来てくださるわ。あんたは賢いし、飲み込みも早いと辛好さんから聞いているから、芸を覚えるのも速いと思う。最高の待遇で妓女の席を用意するってことで、今回のお詫びにさせてもらってもいいんだよ?」


 香織は笑って、首を振った。


「いいえ。わたしは、吉兆楼の厨で賃仕事をさせていただければ、じゅうぶんありがたいですから」

「でもそれじゃあ、あたしの気が収まらないよ。何かお詫びをさせておくれ。三姫の不始末と、あたしがあんたにケガさせた、そのお詫びを」

「そんな! お詫びなんてとんでもない! お仕事いただけるだけでじゅうぶんですから!」

 胡蝶は真剣な顔で香織の手を握った。

「いいえ、お詫びをさせてもらえなきゃ、あたしはこの吉兆楼を今まで通りやっていく気にならないよ」


 本気でそう思っているらしい麗貌を目の前に、香織は少し考える。


「……わかりました」

「なんだい? 何がほしい? 衣装? それとも宝石かしら?」

 ふるふると香織は首を振った。

「わたしに、妓女さんたちのまかないを作らせてくれませんか?」

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