第五十九話 吉兆楼の厨騒動⑤



「ちょ、ちょっと辛好さん。あんたとあたしの仲じゃない。どうしたっていうのさ、急に」


 胡蝶が肩をさすると、辛好が手拭で顔を押さえ、ぽつりぽつりと言った。


殷秋瑞いんしゅうずいが……」

「え? 殷秋瑞いんしゅうずいですって?」


 この呉陽国ごようこく中で大人気の歌劇俳優だ、と耀藍ようらん香織こうしょくにささやく。


「あの御方が出ている歌劇の券があるって言われて、つい魔が差しちまったんだよぉ……」

「ああ、あの評判の『五国誌演義』ね。確かに、今、建安で興行しているわね」

「胡蝶様っ、辛好さんは歌劇が好きじゃないですか! ちょっと観に行ったくらい、どうってことないですよね! それに、酢の物にイタズラされたのは辛好さんのせいじゃありませんよ! ね、ね、そうでしょう胡蝶様!」


 横から杏々しんしんがせわしなく言うと、辛好しんこうがカッと顔を上げた。

「だいたい、あんたらが三姫が揃ってあたしをそそのかすから、こんなことになるんだっ」


 杏々の顔が凍りつき、厨はしん、とする。

 熾してある火の中で、枝が爆ぜる音が妙に響く。


「――辛好さん、今、三姫って言ったわね? どういうこと?」

「ち、ちがうんです胡蝶様、あたしたち――」

「おだまり! あたしは辛好さんに聞いてるのよ!」


 ぴしゃりと言われて杏々は顔色を失くした。


「あんたが歌劇を好きなのはあたしもよくわかっているわ。正直に言ってくれてありがとう。『五国誌演義』を観に行ったのね?」

 辛好は鼻をすすった。

「ああ。仕込み中に、寧寧ねいねい梅林ばいりんが来て、客から券をもらったけど眠くて行かれないから、あたしにくれるってんだよ。行ってこいって。留守なら、新入りの小娘にやらせればいいだろうって」

「そうなの? 香織?」

「わ、わかりません。あたし、あの……寧寧さんと梅林さんが厨へ来たこと、気が付きませんでした。すみません、作業に没頭していて……」

 香織は正直に答えて、頭を下げた。

 作業に集中するあまり、二人が来たことなどまったく気が付かなかった。

(ちょっとUMAPのこと思い出しちゃって、懐かしくて鼻歌なんか歌ってたから……酢の物に何かされたことにも気が付かなかったんだわ……あたしダメじゃん! 留守を頼むって辛好さんに言われてたのに……!)


 胡蝶が、ゆっくりと振り返る。


「寧寧と梅林が言っていたことなら、あんたが知らないはずないわね杏々しんしん? ほんとうなの? 辛好さんに歌劇の券を渡して、行ってこいって言ったってのは」

「は、はい、あの、それは……いつも本当に辛好さんにはお世話になっているから、そのお礼のつもりで」

「そう。お礼のつもりなら、どうして自分たちが厨番をしようと思わなかったの?」

「そ、それは、厨はあたしたちの領域じゃないし、それに――」



 胡蝶の扇子が、白い繊手の中でばしりと打たれた。



「自分でやったことは自分で責任を取る! あたしはあんたたちにそういう教育をしてきたつもりだよ! 辛好しんこうさんを歌劇観覧に出したのが寧寧ねいねい梅林ばいりんなら、あんたら三姫のうちの誰かが厨番に出るのが筋だろう!」


 杏々は薄紅色の唇をかみしめて、うつむいている。


「杏々。あたしは、あんたたち三姫のことは、子どもの時から知っている。親みたいなもんだと思っているんだ」

「胡蝶様……」

「そのあたしに、何か隠していることがあるんじゃないの?」

「そ、そんなこと」

「日頃、辛好さんのまかないや小言に文句を言っているあんたたちが、どういう風の吹き回しか、都でも超人気でなかなか手に入らないっていう歌劇の券を渡したのが、解せないんだよ」

「…………」

「杏々。あんた、香織が初めてこの店へ来た日、やけにつっかかっていたよねえ」

「そ、それは……」

「まさか、香織を辞めさせるために、店の看板に泥を塗るようなことをしたんじゃないだろうね」


 胡蝶の声は底冷えしている。

 杏々の花びらのような唇が、わなわなと震えた。


「胡蝶様、あたし、ちがうんです。聞いてください、あたし――」

「そうなんだね? すべて、あんたたち三姫が仕組んだことなんだね?」


 杏々は硬直している。

 この場では、沈黙が肯定だった。


 胡蝶の白磁器のような顔や胸元が、怒気で真っ赤に染まっていく。


「このっ……なんて卑怯なことをするんだい!!」

「ひっ、ゆ、許してください! 胡蝶様、話しを聞いてくださ」

「黙れ!! ちょっと売れっ子だからって調子に乗りやがって!! 妓女同士の戦いならまだしも、大切な裏方の人手を陥れようとするなんて最低だよっ!!!」

「ご、ごめんなさい……許して、許してください……!」


 杏々は子どものように美しく結い上げた頭を抱えて、座り込んでしまった。


「おまえたちは、あたしを裏切ったんだ!!」

「そんな、ちがっ……」

「今日まで親子と思って育ててきてやったのに!! あたしと辛好さんが苦労して築いてきたこの吉兆楼の信用に傷をつけるなんて、なんて恩知らずなんだい!! おまえたちなんか、もう三姫でもなんでもないっ!!! さっさと荷物まとめて、出ていくがいい!!!」

「胡蝶様! どうか許して! 許してくださいっ」

「うるさいっ! その汚らわしい手をどけなっ!!」


 厨の土間に座りこんで胡蝶にすがる杏々に、胡蝶が扇子を振り上げた。


 ばしり!


 耳に痛い音が厨に響く。


「ちょっと……!」

 胡蝶こちょうが、驚いたように目を見開いた。



 最高級扇子の骨組みに傷付けられ、うずくまる杏々をかばった腕から血を流しているのは――香織こうしょくだったのだ。


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