第五十八話 吉兆楼の厨騒動④


 だから、どうしてこんなことになったのか、香織こうしょくにはまったくわからない。


(やってない、の一点張りじゃ、説得力ないのはわかっているけれど……!)


 でも、言うしかない。

 香織はやってないし、ずっと厨にいたけれど、辛好が帰ってくるまで誰も来なかったのだ。

(華家の台所から使わせてもらった物、まだたくさん買い戻したいし、お肉やお魚を買って、食堂メニューのバリエーションも増やしたい!)

 そのためには、吉兆楼の厨でこのままアルバイトをして、資金を蓄えたい。


 自分に非があるのならともかく、この状況では――あきらめたくない!


「ま、待ってください胡蝶こちょう様! あたし、ほんとうに何もしてませんし、何も知らないんです! 留守中に何かが起きたとも思えませんし――」

「ああらあんたはもしかして、辛好しんこうさんが味付けを間違った、とでも言いたいのかしら?」


 すかさず杏々しんしんが口をはさむ。


「そんなことはないです!」

「だってそうじゃない? あんたがやってないなら、辛好さんってことになるじゃない。厨では二人しか働いていないんだから」

「それは……」

胡蝶こちょう様、この子、辛好しんこうさんがどれだけこの吉兆楼の重鎮だか、わかってないんですよ。簡単に罪をなすりつけようとするなんて」

「そんな! なすりつけるなんて! そもそも、わたしも辛好さんもいつも通り調理をしていただけです! 誰か、他の人が出入りしていなかったか、調べていただくことはできませんか? お許しいただけるなら、わたしがお調べしても――」

「最低ねあんた! 辛好さんだけじゃなくて、他の人にまで罪を振ろうってわけ?!」

「――!」


 杏々しんしんの剣幕に、思わず香織こうしょくは黙る。

 辛好しんこうも目を吊り上げた。


「せっかく目をかけてやろうと思っていたのに、なんて小娘だいっ」

「ねえ、もういい加減、白状しちゃいなさいよ。酢の物に何かしたんでしょ? 最初からそのつもりで、この吉兆楼に来たんでしょ? きっと吉兆楼の評判を妬んでいる、どこかの妓楼の回し者なのよね? 初めてじゃないもの、こういう嫌がらせは。ねえ、胡蝶こちょう様」


 杏々はねっとりとした調子で、胡蝶をのぞきこむ。

 胡蝶は、相変わらず表情のない顔で香織をじっと見据えている。


 すると、四人のやり取りをじっと聞いていた水宝玉色の袍姿が、厨の隅からすっと姿を現した。


「胡蝶」


「ま……まあ、白龍はくりゅう様! ご一緒でしたの?」


 杏々しんしんは上客の白龍――その正体は耀藍ようらんだが――に気付いて、頬を染める。

 胡蝶は相変わらず無表情だが、営業用の笑みを口元にたたえて言った。

「この娘とどういうご関係かは存じませんが、白龍様は黙っていてくれませんか。これは吉兆楼の問題ですのでねえ」


 口調はやんわりだが、香織こうしょくは見据えたまま言う胡蝶の言葉にはとげがある。


「口を出すつもりはない。オレは、ただの香織こうしょくの護衛だからな」

「え? 護衛……ですか?」

「なっ……白龍様がこの小娘の護衛?! ウソでしょ?!」

「ウソじゃない。だからずっと、オレは香織にくっ付いて歩いているのだ」


 そんな、と悔しそうにしている杏々の横で、胡蝶がうなずいた。


「ご事情はわかりましたよ、白龍様。けれど、それとこれとは――」

「わかっている。この吉兆楼においては、オレは客の一人でしかない。この件に関われる筋でもない。部外者としてここまで話を聞いていて思った、ただの素朴な疑問だ」

「そういうことでしたらお聞きしますわ。なんでしょう」

「うむ……さっき、辛好さんは出かけていたと言っていたが、どこへ行っていたんだ?」


 話を振られて、辛好しんこうは、青白い顔をさらに青白くさせた。


「なっ、何をお言いだい! あたしゃ何にも知らないよっ」

「貴女を疑っているわけじゃない。貴女は、胡蝶と共に、ずっとこの吉兆楼を守ってきた方だ。自ら評判を落とすようなことはしないだろう」

「…………」

「オレが不思議なのは、そんな貴女が、なぜ新入りの香織に留守を任せていったのか、ということだ」


 胡蝶の顔に驚きの表情が広がる。

 虚を突かれた、そんな顔だ。


「香織が真面目で、よく働く娘だということは、少しいっしょにいればわかるだろうから、貴女が香織を良く思っていたことは理解できる。ただ、職人気質の貴女が、いくら良く思っているからといって、新入り一人に厨番を任せるというのは、ちょっと考えにくくてな。本筋とはあまり関係ないかもしれんが、少し……いや、かなり気になったのだ」


 そこは胡蝶も考えもしなかったのだろう。「たしかに……」と長年の同士を振り返る。


「辛好さん、そういえば何の用事で出かけていたの?」

「そ、それは……」

 胡蝶の眉間が険しくなる。

「あたしにも言えないことなの?」

「い、いいじゃないですか胡蝶様。辛好さんはずっと厨で働きづめなんですよ? 外の空気を吸いたくなるときだってあるでしょうに」

 横から杏々しんしんが身を乗り出してきたが、胡蝶はじっと辛好だけを見ている。


「辛好さん?」



 一拍の間ののち、ワッと辛好が両手で顔を覆った。



「すまん! すまん胡蝶……出来心なんだよぉ、こんなことになるとは思ってもいなかったんだよぉ」



 突然おいおいと泣き出した辛好に、香織は、そして胡蝶も目を丸くする。




*   *   *   *   *



いつも読んでくださって、ありがとうございます。

『吉兆楼の厨騒動』は、⑤で終了となります。

 ⑤は、今夜19時、公開予定です。

 ヤキモキさせてしまい、たいへん申しわけありません……!


今後とも、『異世界おそうざい食堂へようこそ!』をよろしくお願いしますm(__)m

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