第五十七話 吉兆楼の厨騒動③



 男たちは、裏から吉兆楼に入っていった。


 裏には、人工的に引いたであろう川が流れていた。表の喧噪がウソのようにひっそりと暗い中に、蛙の鳴声がのどかに響いている。


(昼間、寧寧ねいねいさんと梅林ばいりんさんが言ってた蛙は、ここから来るのね、きっと)

 そんなことをぼんやり考えつつ、男たちについて行くと、厨の前に出た。


辛好しんこうさんよ、連れてきたぜ」

 男たちが厨の扉を開けると、そこにはいつもより青白い顔の辛好と、濃い紫の長裙に揃いの長衣のあでやかな姿があった。


胡蝶こちょう様!」

 とたんに男たちは膝をついてかしこまる。

「こちらにいらしたんですかい。店の方はいいんで?」

「ええ、座敷は、三姫がうまいこと回してくれてるよ。それより、下町の方までごくろうだったね、あんたたち」

「へえ、めっそうもねえ」

「もう下がっていいよ。いつも通り、表通りの巡回をしておくれ」

「はっ!」


 男たちは一礼すると、中庭から表玄関へと向かっていった。


 きびきびとした男たちをにこやかに見送っていた胡蝶だが、振り返ったとたん、その女神ようなかんばせから表情が一気に消え失せた。


「さて、香織こうしょく。あの者たちから、話は聞いたかい?」


 胡蝶から怒気が伝わってくる。


(震えるな、わたし……震えたら、疑われる)

 香織は必死でお腹に力を入れて、答えた。

「はい。酢の物のことで、お客様から文句が出ていると……」

「そうさ。とんでもなく酸っぱいのよ。食べ物とは思えないくらいにね」


 赤い口の端が上がるが、その大粒の扁桃アーモンドのような双眸はゾッとするほど鋭い。


「正直に話せば悪いようにはしない。酢の物に、何をした?」

「そんな……! わたし、何もしてません!」

「あたしゃ、多少はできる娘だとあんたを信用して留守を任せたんだ! それなのにこのザマかい! 異国の娘は、やっぱり信用ならないってことだね!」

 横から辛好が怒鳴る。

「胡蝶が寛大な扱いをしてくれるって言ってんだ。さあ、あたしがいない間に何をしたのか早く言っちまいなっ」


(辛好さん、やっぱりわたしのことを信用してくれていたんだ)

 そう思うとうれしく、よけいに自分は何もしていないということをわかってもらいたい。

(前世のわたしは、自分が我慢すればいい、と思って、なんでも自分のせいにしてたけど)



 今なら、きちんと主張することが、自分の大切な人たちのためになるのだということが、わかっている。



 香織かおりだった頃なら、とうてい耐えられなかったであろう胡蝶こちょう辛好しんこうの威圧感をもはねのけ、香織こうしょくはぐっと顔を上げた。

「わたし、言われた通りに留守番をしていただけです! ほんとうです!信じてください!」


「そんな世迷言よまいごとが信じられると思って?」


 優雅な声に振り返ると、厨の扉に薄桃色の長裙姿が立っていた。

 揃えの長衣に、燃えるような赤い髪がよく映えている。


杏々しんしんさん……」

「言われた通りに留守番をしただけで、こんなに酢の物が酸っぱくなるかしら?」


 きれいに盛られた酢の物の小鉢に、杏々は愛らしい顔をしかめる。


「食べ物じゃないわ、こんなの。さっき、むせすぎてお酒を吐いてしまったお客様がいたんですのよ、胡蝶様」

「大丈夫だったのかしら、そのお客様は」

「ええ。あたしたち三姫が閉店までお相手するってことで、事なきを得ましたわ」

「そう。よく対応してくれたわね、ありがとう」

「この吉兆楼の看板を背負う三姫として、当然ですわ」


 杏々は、鼻で笑って香織を見る

「それとも、あんたのお国じゃ、酢の物はあんな味なのかしら?」

「そ、そんなこと……あたし、ほんとうに何もしてないんです!」


 足が震えるが、ここはしっかりと、やってないことはやってないと主張しなくてはならない。

(せっかくいただけた働き口を失いたくないし、それに……)



 ほっそりした杏々を見ると思い出す。

 この吉兆楼で、厨で働く以外に、やりたいと思っていることを。



「まだしらを切るのかい?」

 だから胡蝶の問いにも、ひるまず言い返す。

「ほんとうです!」

「辛好が出かけている間は、あんたは厨に一人だった。それは間違いないんだろう?」

「は、はい。ですが」


 びし、と扇子の鋭い音が響く。胡蝶が手のひらの中で思いきり叩いたのだ。


「じゃあ酢の物に手を加えられるのはあんたしかいないじゃないか! それともなにかい、幽鬼でもやってきた勝手に味を変えていったってのかい?!」


 いつもの柔和な表情は一かけらも無く、鋭い視線が香織に突き刺さった。美女だけに、激昂すると凄みがある。


「クビだよ! あんたは、あたしの信用だけじゃなく、この吉兆楼の看板に泥を塗ったんだ! 二度とここに顔見せるんじゃないよ!」

「そ、そんな……」


 胡蝶こちょうの背中で、杏々しんしんが意地悪く口の端を上げたことに、香織は気付かなかった。

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