閑話③
(あの日の朝、どうしてあんなことしか話さなかったんだろう……)
たしか、『おどうぐサマ』の消しゴムのことで母をなじり、あやまる母を無視してそのまま学校に行ったのだ。
あのとき「べつにいいよ、ママ」と一言、どうして言えなかったのだろう。
母が死んでからずっと、そのことを考え続けてきた。
もう、わかっている。ダメだった自分の、悪かったところ。
(私、ママに甘えてたんだ。ずっと、ぜんぶ)
学校では、運動ができる子、勉強ができる子、顔がいい子、お笑い芸人のようにみんなを笑わせる子、が目立つグループを作る。
みんなが憧れる、カースト最上位のグループだ。
すべてが平均的な結衣は、流行りのグッズを持っていることでなんとか、憧れのグループに入っていたかった。
(今思うと、バカみたいだ。あんな、カタチだけの友だち関係にこだわっていたなんて……)
母が死んだとき、グループの子たちは、うわべでは「たいへんだね」「元気出してね」と言っていた。
けれど、しばらくして登校すると、当たり前のように結衣はグループから外れていた。
母がいなくなって、流行りのグッズを手に入れられなくなった結衣は、グループには不要の存在になったらしい。
そこで、目が覚めた。
自分のやってきたことは、なんとバカバカしいことだったのだろう、と。
同時に、母に対しての自分の態度を、とても悔やんだ。
結衣が頼むものを、母はいつもできるだけ買ってこようとしてくれた。
不景気というやつで、我が家は決して裕福ではないのに、だ。
買えないときは、「ごめんね、買ってこられなかったよ」とあやまった。
「ただいま……」
帰ってきても「おかえり」と言ってくれる母は、もういない。
ゴミ屋敷のように散らかったリビングに夕陽がさして、ホコリがちらちらと舞っている。この曜日のこの時間、結衣はいつも英会話教室に通っていたが、母が死んだとき、やめた。
友だちがみんな行っているから入りたいと頼みこむと、母は少し困った顔をしながらも英会話教室に入れてくれた。
母がパートに行きだしたのは、その少し後からだ。
母が結衣の英会話教室や、兄の塾の費用のためにパートに出ていることは、うすうすわかっていた。
「ママのバカ。優しすぎるんだよ、ママは……優しすぎるのも、罪なんだからねっ……」
散らかったリビングで結衣は泣いた。
今朝のことを思い出す。父もひどい。いつも母に文句ばかり言っている姿しか思い浮かばないほど、父は母に対して上から物を言っていた。
だからなんとなく、自分も母には文句を言ってもいいんだ、と思うようになっていたのだ。
「でもちがう。パパのせいでもない。誰のせいでもない……」
すべてを母に頼って、すべてのストレスを母に押しつけてきた自分が悪いのだ。
「ママの卵焼き、食べたいな」
泣きながら、こんなときなのにと思う。お腹がぐう、と鳴った。
母はいつも、甘めの卵焼きを作ってくれた。ふと、自分にも作れるだろうか、と結衣は思った。
ごしごしと涙を袖でふいてキッチンに行くと、イヤな臭いがした。見れば、大きなゴミ袋がいくつも床に置いてある。
「パパったら、ママがいないとゴミも出せないんだ」
だけど、と結衣は思う。
だったら、私がやるって言えばいいじゃないか。
ゴミくらいなら、私でも出せる。
たしか、母は冷蔵庫の脇に、マグネットでいろんな紙を用途別にきちんと分けて貼っていて、その中にゴミ収集の日が書かれた紙があったはずだ。
「……あった」
燃えるゴミはちょうど明日だ。
「明日、ゴミを全部出そう」
それから、ちょっとずつ片付けよう。
できることからやっていくんだ。
母が、そうしていたように。
結衣が見るときはたいていキッチンに立ち、何かを作っていた母。
その合間にも、母はよく動き回って洗濯や掃除をやっていた。母がのんびり座っている姿を、結衣は思い出せない。
「ママみたいにはできないかもしれないけど……私にできることを少しずつやっていこう」
結衣は、冷蔵庫を開けた。冷蔵庫も母が生きていた頃と同じ物とは思えないほど汚れて、いろんな物が入っている。
「冷蔵庫もきれいにしなくちゃ」
結衣は、とりあえずティッシュを水でぬらして、冷蔵庫のフチに付いた汚れを拭いていく。そうして、卵を見つけた。
賞味期限を確認して、結衣はハタと気が付く。ボウル。菜箸。それらが、流しのシンクに転がっているのが見える。そうだ、洗ってないお皿が山積みになっていたんだ、と思い出し、結衣は急に笑いがこみあげた。
「本当にバカだ、私って」
家事というのは、連続しているんだ。
そんなこともわからず、流行りのグッズをねだり、たかが買い物もしてきてくれないのかと母に文句ばかり言ってきた自分は、なんてバカだったのだろう。
家の中で休む間もなく動き回っている母に「たかが買い物」という時間など作れなかっただろうに。
早くもくじけそうになる自分に「できることを少しずつ」と呪文のように言い聞かせ、流しの皿と格闘していると、リビングの扉が開いた。
「お兄ちゃん」
珍しい。智樹は部活で、いつも帰りが六時は過ぎるのに。
智樹もキッチンにいる結衣を見て、ちょっと目を見開いた。
「おまえ、何してんだよ」
「え……お皿、洗おうと思って」
智樹は何か言おうと口を開きかけたが、すぐにやめて、リビングから出ていってしまった。
兄とは仲が悪いわけではないが、思春期でいつもイライラしている兄は怖いので、最近はほとんど口もきいていなかった。
「しかたないか」
結衣が皿と格闘していると、智樹が再びリビングに入ってきた。
そして、掃除機のスイッチを入れる。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
結衣はびっくりした。智樹はしばらく無言で掃除機をかけていたが、一通りかけ終わったところでスイッチを切って、ぽつりとつぶやいた。
「……洗濯物を片付けねえとダメだからたたみたいけど、床が汚れてたら無理だろ。だから先に掃除をするんだよ。塾行く前にやろうと思って、部活は早退してきた」
「そうだったんだね」
意外だった。母とも、家族の誰とも最近は口をきいていない智樹が、そんなことを考えていたなんて。
「何か一つやればそれで終わりってんじゃないからな。時間を取らねえとダメなんだ。家事っていうのは、連続してるから」
「あ、それね。私もさっき同じこと、考えてた」
思わず言って、結衣は智樹と目が合う。
久しぶりにまともに見る兄の顔は、記憶の中の兄より、ずっと大人びている。
けれども不思議なことに、よく一緒に遊んでいた小さい頃を思い出して、思わず結衣は笑った。智樹も笑っている。
「ママが生きているときに、ママを手伝えたらよかったよね」
結衣はつぶやいた。兄に同意してほしかったわけでなく、無意識に言葉がこぼれてきた感じだった。
だが、驚いたことに、智樹は言葉を返してきたのだ。
「うん。そうだな」
朱い夕陽が差しこむリビングダイニングは薄暗い。兄が腕で顔をこすった。
「もっと、ママと話をすればよかった。何していいかわからなかったなら、聞けばよかった」
昔より低くなったその声は、かすれている。智樹は、再び掃除機のスイッチをいれた。
掃除機をかけながらリビングを出ていこうとする智樹の背中に、少し大きな声で結衣は言った。
「塾行く前までに終わらなかったら、私が洗濯物はたたんでおくよ!」
智樹は一言「おう」と言って、廊下へ出ていった。途中でコンセントを抜いていったので、二階も掃除機をかけるつもりなのだろう。
「おまえたち……何してるんだ」
いつの間にか、父がリビングの扉に立っていた。
「何って、お皿洗ってるんだよ。お兄ちゃんは掃除機をかけてる」
結衣はお皿の泡を丁寧に流していく。もうほとんど、洗い終わっていた。
「できることから、少しずつでもやることにしたんだ」
「結衣……」
父を前にして、結衣は急に言葉があふれてきた。自分でも、止められないほどに。
「もうママはいないけど、ママみたいにはできないけど、ママは残してくれたから。私たちの記憶の中には、心地よい家、っていう姿がちゃんとある。ママがちゃんとしててくれた頃の、私たちが大好きな家の姿がある。急にママがいなくなっちゃって、ほんとうにどうしていいのかわからなかったけど、私、決めたんだ。ママが残してくれた『心地よい家』に近付くように、とりあえず毎日少しずつ、やっていこうって――」
結衣はハッと言葉を止めた。流しの水も止めた。
「パパ……」
父は、泣いていた。
泣きながら、もごもごと口の中で何か言っている。
『すまない、香織……すまない』
そう言っているように聞こえる。
父もつらかったんだ。
夕陽に照らされる父の姿は、とてもくたびれて見えた。胸がきゅうと痛んだ。
結衣は、キッチンのタオルを父へ持っていった。
「ね、だから、パパも一緒に、できることからやろうよ。ママがやってくれていたこと、私たちで少しでもやってみようよ」
「そうだな……そうだな」
父は、結衣からタオルを受け取って顔をごしごしふいている。
そのときリビングの扉が開いて、智樹が立っていた。
子どもの前でぐしぐしと泣いている父に目を丸くしたが、すぐに父の横をすり抜けると、蟻塚になっている洗濯物の間に座ってたたみはじめる。
「私も」
結衣もソファに座ろうとして、しかし座る場所がないので、床に正座して洗濯物をたたみ始めた。
すると、パッとリビングの電気が灯って、部屋が明るくなった。
「おまえたち、暗いじゃないか。灯かりを付けないと」
電気のスイッチを入れた父も、床に座って洗濯物をたたみ始める。
「香織は洗濯物をたたむのが、うまかったな」
父が、ぽつりと言う。また涙声になっている。
「洗濯物をたたむのも、でしょ。ママはなんだって上手にしてたもん。ママがいなくなっちゃってから気付くって……遅っ、だけどね」
結衣も思わず、鼻の奥がツンとしてしまう。智樹が、黙ってティッシュの箱を父と結衣の間に置いてくれた。
「でもさ、ママは罪深いほどに優しいから。きっと天国から、私たちがちょっとずつがんばるところを、見守ってくれると思うんだ……」
結衣はリビングの窓から、きれいな夕焼け空を見上げた。
♢
「……っくしゅん!」
ぼんやりと青空を見上げていた
「きっと、どうにかやってるわよね。あの人、ああ見えてけっこう器用だったもの。結婚したばかりのときは、パスタなんかも作ってくれたし、食べられなくて困ってるってことはきっとないわ。智樹も結衣もいるし。うーん、智樹はあんまり、アテにならないかもだけど……」
今はもう、完全に異世界の存在になってしまった家族を思う。
冷え切っていた家族だったけど、思い返せば夫とは恥ずかしいくらいラブラブで結婚したし、子どもたちが小さいときは、必死ながらも笑いある子育てだった。
だからこそ、家庭の中が冷え切っても、香織はがんばれたのだと思う。
今はもう、なぜ家庭の中があれほど冷え切ったのか、原因はわからない。
きっと、いろんなことが重なってだと思う。
(きっと、わたしにも悪いところはあったと思う)
誰かが、何かが、と白黒ハッキリすることじゃないのだろう。
「わたしたちは、時間の流れの中で、たくさんの人の間で、生きているから」
それはこの異世界でも同じだと、香織は思う。
自分の至らなかったところを考えて、直していけたら……今度こそハッピーエンドを迎えられるだろうか。
「うん、やっぱりハッピーエンドを迎えて死にたいよね……」
「ん? 何か言ったか、
のぞきこんでくる美形にドキドキしつつ、香織は吉兆楼の前で立ち止まる。
「なんでもないです!
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