閑話②


「織田川くん、ちょっと」

 上司のデスクに呼ばれて席を立つ。

 四郎は、この上司が苦手だった。

 自分よりいくつか上の期の先輩で、たたき上げで営業部課長にまでになった、バリバリのキャリアウーマンだ。

 歯に衣着せぬ物言いに定評があるが、四郎にはそれがきつかった。


「なんでしょうか」

「先週、上げてもらった見積書なんだけど、ミスがあるの。それも一か所じゃなくて、何か所もある。さすがにこれは作り直してもらうしかないわね」


 返されて愕然とする。確かに、今この場で見ても明らかに数値が違うとわかる箇所がある。

 この見積書はたしか、アシスタントの女子社員にやらせたものだ。


 四郎は営業スマイルを顔に張りつかせる。

「言い訳するわけではないのですが……これは私ではなく、アシスタントの加藤さんにお願いしたものでして」

「でも彼女の上司は貴方よね?」


 鋭く切り返されて、四郎は言葉に詰まる。


「貴方、いつもミスがあると誰かのせいにしているけど、グループに振られた仕事はすべて上司に、つまり貴方のグループならグループ長の貴方に責任があるのよ? 貴方が上司の権限で部下に仕事を差配するなら、最終チェックは貴方がするべきだわ。ちがう?」

「それは――」

「私には、貴方が面倒なことは部下にやらせて、言い訳ばかりしているように見えるんだけど」


 鈍器で殴られたような衝撃だった。

 つい先刻、無理やり胃に流しこんだ煮卵おにぎりのことが頭に浮かぶ。

 どうして自分は、食べたくもないあのおにぎりを、イライラしながら食べたのだろうか。


「奥様が亡くなられて、大変なのはわかっています。でも、仕事は別の話です。厳し事を言うようだけど、仕事は仕事でやってもらわないと」

「……はい、すみませんでした」


 頭を下げて行こうとする四郎を、上司が呼び止めて声を低くした。


「私も一人の家庭の主婦として、家事や育児の大変さはわかっているつもりよ。私も貴方の上司として、困ったときは力になるから、言ってちょうだい。……なーんて偉そうなこと言っても、家事力ゼロの私にできることといえば、いい家事代行サービスを紹介するとか、美味しい宅配サービスを教えるとか、それくらいなんだけどね」


 四郎は驚いて思わず上司の顔を食い入るように見た。

 照れたように笑うその顔は、いつものやり手上司の顔ではなく、どこにでもいる中年主婦の顔だった。


(香織……)

 そんなはずはないとわかっているのに、亡き妻の顔に重なって見えたのだ。



 本当はずっと、わかっていた。

 自分に、行動が伴っていないことを。


 結婚して間もなく、香織が妊娠したときからだと思う。

 日に日に大きくなる香織のお腹を見ては、四郎の不安も大きくなっていった。


 自分は父親として、やっていけるのだろうか。

 家族を養っていけるのだろうか。


 香織は大きなお腹を抱えて、一生懸命やってくれている。

 自分も頑張らなくてはならない。


 そう思えば思うほど、気持ちだけが空回りしていった。

「頑張る」といっても、何をしていいのかわからなかったのだ。


 自分は赤ん坊を産めないし、赤ん坊の世話も香織のように上手にできない。おむつもミルクも、失敗ばかり。おっぱいをやることももちろんできない。

 何か手伝おうと思ってもうまくいかず、ただ寝不足のまま会社へ行き、ミスを連発して上司に叱責される日々が続いた。

 家でも外でもオロオロと右往左往しているのを香織に知られるのもカッコ悪くて恥ずかしくて、いつも上から物を言うことでその恥ずかしさをごまかしてきた。


 そうして、慣れてしまったのだ。

 自分の不安やカッコ悪さを押し隠すために、香織にすべてを押しつけることに。



 本当は、香織がいなくてはやっていけないとわかっていた。




 香織はほとんど文句も言わず、子どもたちを育て、決して多いとは言えない家計をやりくりし、家事をこなしてくれていた。最近では、パートにも出てくれていた。



 それがどれだけ大変で、偉大なことか。



 香織がいなくなって、それが目に見えて浮き彫りになった。

 口だけでガミガミ言っていただけの自分とは、何という差だろう。



 いつの間にか、地元の駅に着いていた。夕方のラッシュの人波に押され、四郎は歩く。いつものバス停を通りすぎて、ただひたすらに歩いた。もう少し行くと、香織が轢かれた横断歩道に出るはずだ。



 あの日、香織は死ぬ直前、何を思っていただろう。

 そんなことを考えてぼんやり歩いていくと、横断歩道が見えてきた。



 たくさんの人や自転車が通るその脇に、ひっそりと花とペットボトルのお茶が添えられている。事故の直後は、智樹や結衣の友だちの母たちがひっきりなしにやってきて、花やお菓子をたむけてくれた。こんなにもたくさんの人たちが香織の死を悼んでくれることに驚き、おかしな話だが誇らしくもあった。


「香織……」

 なぜもっと早くに気が付かなかったのだろう。くだらないプライドや見栄を捨てられなかったのだろう。



 そうすれば、香織に優しい言葉をかけることが、できたはずだ。

 冷え切った夫婦関係を、やり直すこともできたかもしれない。



「香織……すまん。ほんとうに、すまん」

 四郎は、香織が轢かれた横断歩道に立ちつくして、泣いた。



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