閑話➀
「おいっ、おまえたちっ。何度言ったらわかるんだっ。少しは部屋を片付けろっ!」
ダイニングテーブルの上は食品――菓子パンや缶詰、レトルト食品など――が山積みになっていた。少し前、智樹がそこから菓子パンを
結衣はそれらを片手で押さえながら、片手で菓子パンを食べていた。
「おいっ、聞いてるのかっ智樹っ。おまえはもう中学生だろうがっ、ちょっとは協力しろっ!!」
四郎は声を大きくして息子に怒鳴りつけた。
智樹は完全に四郎を無視し、乾燥機にかけすぎてしわしわになった体操着を蟻塚から引っぱり出している。
「智樹っ」
しかし智樹は振り返りもせず、叩きつけるようにリビングの扉を閉めた。
「壊れるだろうがっ、おまえが修理代出せんのか?! ああ?!」
四郎の怒鳴り声をかき消すように、今度は玄関扉が凄まじい音を立てる。
「ったく、生意気になりやがってっ」
妻の
――いや、ほんとうは、香織が死ぬ前から、四郎はほとんど子どもたちと会話をすることはなかった。
(子育てなんて家にずっといる香織がやればいいんだ)
そういう考え方のもと、四郎は、子どものことはすべて香織に押しつけてきた。
だいたい二人とも、いつ頃からか可愛くなくなった。昔は子犬みたいで可愛かったのに、智樹などはいつの間にか声も野太く、四郎と変わらない背丈になっている。
智樹は部活や塾で帰りが遅いし、口を開けば生意気なことしか言わない。
ぶん殴ってやりたいのをこらえるのもストレスだし面倒なので、智樹のことは意識的に避けてきた。
結衣は、六年生とはいえまだ小学生だし、女の子なので可愛くもあるが、この頃では四郎を避けるようになってきたため、やはりほとんど会話はない。
「お父さんの服は別で洗濯して」と香織に言っているのをこっそり聞いて以来、ふざけるなと腹も立っている。
(智樹も結衣も、俺が稼いでこなかったら何もできないくせに。それなのに、あいつらときたら)
ありがとうの一言も、言われたことがない。
もっと自分を
「だいたい、香織が悪いんだっ。勝手にいなくなりやがってっ」
ヤケクソ気味に朝食の皿を流しに放りこむ。がちゃん、と嫌な音がする。
昨日の朝と夜の皿もたまっているため、シンクはすでにいっぱいになっていて、悪臭もしていた。
「パパ、またお皿洗わないの?」
「俺は今から仕事に行くんだっ。おまえが洗えっ!!」
結衣はびくっと肩をすぼませ、呟く。
「……あたしだって、学校に行くんだよ」
「うるさいっ。いちいち口答えするなっ」
結衣は食べかけの菓子パンを皿の上に放りだすとランドセルをしょった。
「ママがいなくちゃ、この家はダメだね」
結衣はぽつりと言って、走っていってしまった。
「そんなわけないだろうがっ!! ここは俺の家だぞっ!!!」
玄関の扉が、四郎の怒鳴り声を拒絶するようにばたん、と閉まる。
「ここは俺の家だ……!」
三十年ローンを組んで手に入れた、マイホーム。
自分は日々、必死で働いている。パワハラ気味の上司に頭を下げ、使えない部下に苛立ちながら、毎日、一日も休まずに会社に行っているのだ。
肩にずっしりと乗っかった、住宅ローンを払い続けるために。
「ここは俺の家だ……」
リビングダイニングを見回す。
無理して買ったソファセットの上には、何日分かわからない洗濯物が蟻塚のようになっている。
そのため、自慢の大型液晶テレビが見えない。
床には、ホコリが舞っているので、洗濯物を下ろすわけにもいかない。
ダイニングテーブルには買ってきたままの食品が無造作に放置され、椅子には智樹の塾の荷物や結衣の習い事のバックが置かれて、ダイニングの床には子供たちが学校から持ち帰ったプリント類が散乱している。
四郎は学校からのプリントなど見ないため、子どもたちが食品の山に積みっぱなしにしたプリントは、食品を漁るたびに床に落ちてしまうのだ。
キッチンには、45リットルのゴミ袋がいくつも溜まり、シンクに積まれた皿とともに悪臭を放っている。
「ここは、俺の……」
……いや、ちがう。
ここは俺の家じゃない。
朝起きると、窓が開いていて、空気が入れ替えられている。
掃除された床にはホコリひとつ落ちていない。
ソファはクッションがきれいに整えられ、朝食を食べながら結衣が目覚ましテレビを見ていることもある。
ダイニングテーブルには、パンのときは目玉焼きかスクランブルとハムやベーコン、野菜スープにヨーグルト。白飯のときは味噌汁に青菜のおひたし、納豆や甘めの卵焼きなどがそろっている。
そして、用意された弁当が、キッチンのカウンターに置いてある。
「それが俺の家だ……」
どうして、こんなことになってしまったのか。
『ママがいなくちゃ、この家はダメだね』
結衣の言葉が耳の奥でリフレインする。
「くそっ、あいつが急に死んだりするから……!」
四郎はカバンとジャケットをつかむと、乱暴にリビングダイニングの扉を閉めた。
♢
昼休み。
朝は晴れていたのに、昼前から急に雨が降り出した。
「ちっ、濡れるな……」
ここでも死んだ妻のことを腹立たしく思いながら、四郎は会社近くのコンビニに走った。
社内では弁当率が高く、外へ出る者の方が少ない。
今までは四郎も弁当派だったが、今ではコンビニの常連になっている。
「あれ、織田川さんじゃないですか。お久しぶりです」
コンビニでおにぎりの棚をぼんやり見ていると、見覚えのある若い社員が後ろからやってきた。
「お、久しぶりだな。元気でやってるか」
広報部の若い社員が二人、見たことのない顔も連れている。
以前にいた広報部と現在の職場である営業部はフロアが異なるため、彼らと会うのは久しぶりだ。
「たしか織田川さんて、愛妻弁当でしたよね?」
「そうそう、営業課に移っても有名でしたよ、織田川さんのお弁当。いっつも彩りがキレイなお弁当だって、営業課の子も羨ましがってましたよ~」
冷やかすように言った女子社員の服を、別の知らない女子社員が引っ張る。
「ねえ、織田川さんて、この前、社内メールで……」
奥さん亡くなったって訃報があった方じゃない? とささやくのが聞こえる。
「えっ」「そうだったっけ」
二人はコソコソとささやいて目配せした後、きまずそうに頭を下げた。
「すみません!」
「いやいいんだ、気にしてないさ」
そう、気にしてなどない、と四郎は思う。
勝手に死んだ香織のことなど、知ったことか。
彼らが行ったあと、四郎はぼんやりとおにぎりの棚に目をやる。
お昼どき、すでにおにぎりの棚はすかすかになりつつある。
鮭やツナマヨ、たらこや梅などの定番人気の味はすでにない。残っているのは煮卵や焼き肉がトッピングされた、変わり味のものだ。
四郎は、変わり味があまり好きではなかった。
時間を逃すと好きな味のおにぎりも買えない――四郎はさらに苛立つ。
「ったく、俺がこんなに働いてるっていうのに……」
香織はなにをやっているんだ、と毒づき、そうだ、と思う。あいつは死んだんだ。交通事故で。トラックに轢かれて。青天の霹靂。本当に突然のことだった。
四郎は、自身では気付いていないが、今でも香織の死を受けれられていない。
だからこそ、機能停止といっていいほど回らなくなった生活のすべてを、香織のせいにして毒づいていた。
「そう、すべてあいつが悪いんだ……」
香織がいつも通りに家を整え、弁当を作っていれば、こんなことにはならなかったはずだ。
食べる気のしない変わり味のおにぎりを、四郎はいつまでも獣のような目でにらみつけていた。
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