第四十九話 癒しの厨(キッチン)と香織の不安
次の日、香織はいつもより早く起きた。
いつもは、朝日が昇るのと同じくらいに起きるのだが、今日はまだ外が暗い。
すがすがしい空気の中、長身の人影がおどろしい幽鬼のように立っていた。
「お、お化け?!」
思わず声を上げたが、夜明けの光の中、浮かび上がってくる上等な絹の深衣を見て香織は気が付く。
「まさか……耀藍さま?」
まちがいない。耀藍だ。
「ど、どうしたんですかこんなに朝早く?! 耀藍様が早起きするなんて地震の前触れ……? ていうか耀藍様、すっごいクマできてますよ?!」
「むう……昨日は……眠れなかったのだ……」
アクアマリンの瞳が今にも閉じそうになり、しかし閉じそうで閉じない。
「どうしたんですか? 眠かったら、寝てていいんですよ? ていうか、いつも起こしたって寝ているじゃないですか」
「……ぎり」
「はい?」
「香織のおにぎりが食べたいんだよぅーーー」
耀藍はそう言ってさめざめと泣きはじめる。
「ちょ、朝っぱらからこんなことろで泣かないでください!」
「おにぎりぃーーーー」
「わかりましたよ! 言われなくても作るつもりでしたから!」
「……ほんとうか?」
「はい! 塩屋の羊剛さんへのお弁当、おにぎりがいいかと思って」
香織は、顔を洗った耀藍に手拭を差し出した。
♢
熱した油に、卵液をそそぎこむ。じゅわ、と小気味よい音がして、卵の焼けるいい匂いが厨中に広がった。
「あっ、耀藍様、あんまり近くでのぞくと油がはねて危ないですよ! 離れて!」
「だって面白いぞ! こう、油がじゅわっと音を立てるのがたまらん! そして
今にも菜箸で卵液をすくって口に入れそうな耀藍を竈から引きはがし、香織は大きな布巾を渡した。
「はい、これでお米の土鍋をあそこの台の上に下ろしてください。熱いから気を付けてくださいね?」
「おおっ、炊けたんだな?! さっそく味見を――」
「味見は後ですっ。ちゃっちゃと動く!」
けっきょく、早朝に庭で会ってから、耀藍はずっと香織のそばを離れないのだ。
(元気になって、よかったけど)
香織のおにぎりが食べたいと泣いていた耀藍は様子がヘンで、空腹のせいだけではないと思われたのだが。
隙あらばつまみ食いをしようとする耀藍は、いつもの耀藍に見える。
(でもなあ……はっきり言って厨で張りつかれると、危ないし邪魔なのよね。でも、しょうがないか……)
耀藍は香織を見張っているのだ。
芭帝国のスパイだという疑いは、まだ晴れないらしい。
昨夜、蔡家で紅蘭にまた何か言われたのかもしれない。
厨ではほとんど戦力にならず、むしろ邪魔でしかない耀藍だが、米の土鍋は重いので運んでもらえて助かる。
軽々と土鍋を台に置く耀藍の姿に思わず笑みがこぼれて、香織はふと思う。
(夫とは、こういう時間、なかったな……)
結婚して十八年、いっしょにキッチンに立ったことは一度もない。
手伝ってほしいと思ったことは、それこそ数えきれないほどあるが。
体調が悪いとき、子どもたちが乳児のとき、学校行事などで忙しくて手が回り切らなかったとき……。
とのときどきで、手伝ってほしい、とやんわり伝えてきたけれど、「外で働いている俺を家でもコキ使うのか! 家事はおまえの仕事だろう!」と一喝されて終わり。
以来、「わたしが我慢すればいい」と香織も夫にキッチンのことを頼まなくなった。
どんなに高熱でも唐揚げを作り、足元をちょろちょろする智樹をぬいぐるみであやしつつ結衣をおぶって炒め物を作り、運動会のあとのヘロヘロに疲れた体でカレーを作った。
誰も助けてはくれない。
キッチンは戦場。一人でがむしゃらに立つものと思ってきた。
それが転生して、早朝からこんな超絶イケメンと一緒に米を炊いて、なんだか心から癒されている。
料理が楽しい、好きだ。
そういう、遠い昔に失くした気持ちを思い出せている。
人生というのはわからないものだ。
「おおっ、つやつやしているな!」
土鍋の蓋を取った瞬間、歓声が上がる。
「はい。これを、こうしてまぜて……で、手に塩、中に具、ぎゅっと閉じて、こうやって形を整えていくんです」
「おおっ、まるで魔術を見ているようだぞ! 香織はすごいな! オレにもやらせてくれ!」
「ダメです」
「そこをなんとか」
「お米、お弁当の分と、朝の分しか炊いてないんで。失敗したら、お弁当か朝の食べる分が減っちゃいますよ?」
香織がそう言うと耀藍はしぶしぶあきらめたが、相変わらず香織の隣にぴったりはりついてじいっと香織の手元を見ている。
(な、なんかあんまり見られると……恥ずかしいな)
香織は恥ずかしさをまぎらわせようと、口を開く。
「おにぎりって、働く人が食べやすいようにできてるんです。手で食べられて、おかずも具にできて。だから羊剛さんに持っていってあげようかなって思って。付け合わせは卵焼きだけですけど、おにぎりを大きくすれば、羊剛さんもお腹いっぱいになるかな、って」
すると、耀藍が神妙な顔で言う。
「むう、そうなのか。オレは働いてないが、昨日の夜から香織のおにぎりが食べたくてしかたないのだが……いいんだろうか」
香織は思わず笑った。
「いいですよ、べつに。おにぎりは誰が食べても食べやすいんです」
「うむ。多めに作ってくれ。米はまた持ってくる」
「う、また蔡家から……しかたない、わかりました」
「たのむぞ。お、鍋が吹いてるぞ香織」
「あわわ。耀藍さまっ、これ洗っててくださいっ」
香織は食堂用のスープの鍋をかきまぜながら、耀藍に籠ごと青菜を渡す。
「ていうか、耀藍様」
「なんだ?」
「何をなさっているのですか?」
盥に溜めた水の上を、青菜の葉先がそろり、そろりと泳ぐように左右している。
「え? 青菜を洗っているのだ。香織が洗えと言ったのではないか」
「……それは洗ってるとはいいませんっ。水を撫でているだけじゃないですか!」
「失礼な! ちゃんと洗ってるぞ」
「……ぜんぜん泥が落ちてないのは気のせいですか?」
「う、だ、だってだな。あまり力を入れると、葉が切れそうではないか」
耀藍は、まるで子犬を洗うように、そうっとやんわり青菜を持っている。
「はあ……それじゃ落ちるものも落ちません。ほら、貸してください」
香織は耀藍の手から青菜を受け取って、根をしっかり握って葉先を盥の中でじゃぶじゃぶと泳がせる。
「こうやってまず葉先の泥を落として、それから」
今度は葉先をしっかり持って、盥の中で根の泥を丁寧に落とす。
「ね? こうやれば葉が切れないで泥が落ちますから」
「おお! ほんとうだな! 盥の中に泥がたくさん落ちている! すごいな香織は!」
(ふふ、可愛い)
当たり前のことで感動する耀藍は、子どものように目がキラキラしている。
野菜を洗うだけでそこまで感動するか? とも思ったが。
(そうだった、この人、貴族なんだった……)
前世と同じ感覚でいるとただの超絶イケメンにしか見えないが、耀藍はこの世界の貴族なのだ。
(きっと自分の顔とか身体も、大きくなるまで洗ったことがないのかも……)
貴族なんて会ったことも見たこともないのでわからないが。
前世のぼんやりした知識によれば、貴族とは大勢の侍女にかしずかれて、全部侍女がやってくれるらしい。お風呂やトイレも一人では行かないらしい。
「……って、まさか今もですか?!」
「ん? なにがだ?」
「あっ、いえ、なんでもないです」
思わず心の声がダダ漏れになってしまった。
(そういえば、耀藍様って、いずれはお城で術師として働くんだったよね……)
耀藍は推定18歳くらいだろうか。
華流ドラマの世界では、もう宮廷で働いていてもおかしくない年齢だろう。
(……てことは、そう遠くないうちに、耀藍様とは会えなくなるってことだよね……?)
「香織! ふいてるぞ鍋!」
「え? きゃあああ!」
香織はあわてて蓋をはずし、火を加減する。少し焦げたにおいが広がった。
「だいじょうぶか? 具合でも悪いのか? 何か悩みごとか?」
「い、いえっ。なんでもないですっ」
心配そうにのぞきこむアクアマリンの瞳から、思わず目をそらす。
(耀藍様は近いうちに、王城に行ってしまう……)
そうしたらもう、いっしょに食卓を囲むことはない。こうしていっしょに厨に立つこともないだろう。
(いやいやいや!耀藍様のことだから、王城勤めになっても華老師の家にゴハン食べに来そうだわ……ぜったいそうよ!)
――耀藍様と、会えなくなるかもしれない。
その可能性を、香織は無意識に頭の隅に追いやったのだった。
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