第四十八話 耀藍の悩み


 建安の都、亥の上刻。


 貴族の邸宅の門前には、警備の者が増える。

 貴族がそれぞれの家で抱える私兵だ。

 建安は比較的治安のいい都だが、周辺諸国に内乱や災害が続くこの御時世、用心するに越したことはない。


 それとは別に、王城から巡回兵が出ていた。

 王城から役所、貴族の邸宅周辺を巡回し、警護するためだ。


「なあ、知ってるか?」

 巡回兵がつぶやく。

 二人組の彼らは王城から南北大路を南に下り、ひときわ大きな邸宅の並ぶ大路を歩いていた。



「近頃、この周辺であやかしが出るらしいぞ」

「くだらんことを。どうせ根も葉もない噂話だ」

「ほ、ほんとだって。白い、ぼんやりした影がこう、なにもない大路の真ん中にゆらりと立ち上がるんだと」

 怖くてしかたがないらしい相棒に、巡回兵は肩をすくめる。

「バカバカしい。おおかた、貴族の誰かが流したデマさ。お偉いさんは妖より盗賊が怖いんだろう」

「そうかな……」

「物価高で苦しむ我ら庶民を下に見て、せっせと貯めた小金を盗まれちゃあかなわんだろうからな」

「しっ。おい、ここは特にお偉いさんが住んでいる区域だぞ。誰かに聞かれでもしたらマズイって」

「はっ、心配すんな。この区域の大貴族サマは今頃みんな、絹のしとねの中さ。こんな暗がりにいるはずは――」


 急に、二人の足が止まった。


「な、なあ、あれ……」


 建ち並ぶ邸宅、その高い塀の隙間から、わずかにこぼれる灯りがたよりの、薄暗い大路。

 なにもないはずのその暗い地面に、ゆらり、と白い影が立ち上がり――。



「「ぎゃあああああ!!!!!」」



 巡回兵たちは、一目散に駆け出した。振り返りもせず。


「……なんだというのだ。人をバケモノみたいに」


 白い長身の影――瞬間移動の術を終えた耀藍は、少し先にそびえる蔡家の門へ歩いていった。



「そなた、噂になっておるぞ」

 耀藍に面差しのよく似た麗貌が、くつくつと笑う。

「白い妖だそうだ、そなたは。道の真ん中に突然現れるという」


 耀藍は肩をすくめた。

「オレは髪が銀色なんで、そう見えるんでしょうね」

「前から思っておったのだが、屋敷の中、この我の室へ直接もどってくればよいではないか?」


 茉莉花茶ジャスミンティーの茶器を手に取り、耀藍は首をふる。


「移動術は、あらかじめ出入口を作った場所と場所をつなぐもの。他の術師に入られないためには、屋敷の中に出入口を作るわけにはいきません」

「そなたの術を破れる者など、この建安にはおるまい」

「建安にはね。でも、異国の術師はわかりません。いまの御時世、用心するに越したことはないでしょう」

「なるほど。たしかに、そうじゃな。で、どうじゃ、あの異国の娘は」

香織こうしょくは――」


 間諜などではない、ただの料理上手な可愛い娘です。


 そう言おうとして、耀藍は(まてよ)と考える。


(香織が間諜などではなく、ただの異国の難民の娘となれば、もう見張る必要はなくなる……ということは、もう香織のご飯が食べられなくなるではないか!)


 香織の食堂へ食べにいけばいいのだが、そういう問題じゃない。


(オレは、香織の作る料理が並ぶ食卓につきたいのだ)


 だから、なんとしてでも見張り役の任を解かれるわけにはいかない。


「なんじゃ?」

「ああ、はい。いえ、今のところ特に怪しいことはないですよ。近所の者が寄れる食堂を始めて、その材料調達の資金稼ぎのために、花街で働いてますけど」

「なに? 妓女をやっておるのか」

「妓女じゃありません。厨で、料理の仕込みを手伝う賃仕事ですよ」


 紅蘭は、美しく結い上げた髪を傾げる。


「なんなのじゃ、あの娘は。つくづく変わっておるのう。料理が好きなのか」

「はい! とても美味しいのです、香織の作る料理は」

「ははあ、なるほどな」


 姉の紅唇が意地悪く上がったのを見て、耀藍は顔が引きつる。


「な、なんですか」

「それでそなた、このところ家で食事を採らぬのだな。雹杏ひょうあんが嘆いておったぞ。厨女くりやおんなたちはそなたの食卓へ皿を運ぶことを楽しみにしておるのに、肝心なそなたが留守がちなので、皆がっくりしておるとな」

「へ、へえ、そうなんですか。知らなかったなー」

「我が家の厨房の料理は、この建安の都でも五指に入ると自負しておる。その料理を食べず、あの小娘の作る料理を食べるというは、あの娘の料理の腕がよほどいいのか、あるいは――」

「そ、そうだ! オレそろそろ華老師のところへ戻らなくては!」


 耀藍はとうとつに膝を打った。


「華老師に、父上の薬の追加分を煎じるのを手伝えって言われてるんで!」

「ほう、そうか。まあ、そなたも年頃、見目美しい娘に心奪われることもあろう」

「なっ……」


 耀藍はわからなかった。

 自分でもなぜこんなにうろたえてヘンな汗が出るのか。

 わからないまま姉に必死で訴える。


「ち、ちがいます! 香織のことはそんなんじゃありません!! たしかに香織の作る料理が食べたいと思うし香織の笑顔が好きだし香織がなにしているかいつも気になるし今も香織に会いたいです! で、でもっ、オレはあくまで姉上に言われた任務をこなすために香織を見張っているのであって断じてそんな下心があるわけではないんです!!」

「………………。」


 紅蘭は眉間を押さえた。

(頭痛がしてきた……)

 この自慢の弟は、天賦の才と美貌をもつ、誰もが羨望してやまない男だ。

 しかし、しばしば、ボケが過ぎることがある。


「……まあよい。引き続き見張ってくれればそれでよい」

「仰せのままに! 見張ります! 見張り続けますとも!」

「ただし、くれぐれも気を付けよ。あの小娘とは、男女の関係にならぬよう」


 ぶはっ、と耀藍は飲んでいたお茶を盛大に吹いた。


「汚いのう……」

「す、すみませんっ、でもっ、姉上がヘンなこと言うから――」

「ヘンなことではないぞ。大真面目じゃ。なにしろ、来月にはそなたを王城に召すとの勅使が来たからな」

「……え?」

「いよいよ、蔡家術師として王城に仕える日がくるのじゃ。それまで、あの香織とかいう娘とまちがっても何もないようにの」


 姉の声が、遠くに聞こえる気がする。


(王城へ…)


 蔡家に生まれ、術師の才があるとわかってから、いつかはこの日がくるのだと思ってはいたが。


(こんなに、突然)


 いや。

 突然ではない。

 ついこの間まで、召されるなら早く召されろ、と思いながら日々ヒマをもてあまして暮らしていたのだ――香織がやってくるまでは。


(蔡家術師として王に仕えるようになれば、もう香織の料理は食べられなくなる……)


 そう考えただけで、思考が止まってしまう。


 まずい。

 それはとてもまずい。


(なんとかしなくては……なんとかなるのか?!)


「耀藍? いかがした?」

「い、いえ、なんでも。では姉上、失礼します」


 自分の声すらも、どこか遠い。

 無性に、香織の作ったおにぎりが食べたかった。

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