第四十四話 日々厨(キッチン)に立つということ



「なんか、信じられないな……」

 中庭を歩きながら、香織はぼんやりと思う。


 本当に、吉兆楼の厨で使ってもらえるなんて。

 辛好の下で働けるなんて。


「ありがたい話だけど、本当にわたしなんかでいいのかしら……」


 少々気後きおくれしつつ厨をそっとのぞくと、辛好がいつもと同じように食材をチェックしていた。



(辛好さんは、すごいな)



 厨仕事は、単純作業の積み重ねだ。

 それが、どんなに大変なことか。

 主婦を15年やってきた香織は、多少なりともわかっているつもりだ。



 食材の調達、収納、下ごしらえ、調理、片付け……どれも、はた目から見れば、たいした作業ではないのかもしれない。



 しかし、それを毎日、毎月、毎年と積み重ねていくことが、どんなに大変なことか。



 同じことの繰り返しというのは、ラクそうだが、続くと精神的に疲弊する。

 けれども、「イヤだから今日は調理しない」とか「めんどうだから食器の片付けはしない」とかいうわけにはいかないのだ。

 生きて食べているかぎり、食べてくれる人がいるかぎり、厨仕事というのは、同じことを同じように、ずっと繰り返さなくてはならない。


 それを、辛好はたった一人でこの吉兆楼の料理という大看板を背負い、ずっと変わらない味を守り続けている。

 ここ数日、香織が観察するかぎり、ほんのちょっとの手抜きもしない。そこは家庭料理とはまた違った、プロのこだわりもあるのだろう。すべてのお客様に、同じサービスを提供しなくてはならないからだ。



 そんな辛好が、本当にすごい――香織は心からそう思うのだ。



(でも、同じように考えると……わたしもけっこう、がんばっていたよね)



 自分のこととなると「すごい」という実感はわかないが、前世、台所仕事が日々大変であったことはハッキリと覚えている。



 一日に三度、家族のスケジュールによっては四度、五度の食事作りに、弁当作り。

 キッチンに立つ主婦(主夫)は、多かれ少なかれ、いつも食事のことを考えて生きている。

 それが、どんなにストレスフルで、つらいことか。



 ふと、トラックに轢かれた日のパートで、店長の西田が言っていたことを思い出す。

《主婦なんて、家でゴロゴロしてテレビ見て三食昼寝付きの生活してるから半分ボケてるんですよ》


――ゴロゴロも昼寝もしてないけど、もしそうだとしても何が悪いのかしら。


 西田が言うように、そういう主婦もいるのかもしれない。でもそれは、キッチンに立つことをはじめ、日々の家事労働からくる疲れやストレスを癒すためにゴロゴロしているのだ。

 西田のようにバリバリ働く女性が、癒しのエステやホテルアフタヌーンティーに行くのと、同じことではないだろうか。


 みんな、生きるためにがんばっている。

 きっと西田も、世の主婦(主夫)も、そして香織も――がんばっていた。


(日々キッチンに立つすべての人たちを尊敬したい。前世でがんばっていた自分も含めて……)

 そう思った瞬間――今まで胸の中にぎゅっと縮こまっていた冷たく硬い何かが、ふわっと解けていく感触を、香織はたしかに感じた。



(わたし、前世じゃこんなポジティブな考え方、できなかったよね……転生して、ほんとうによかった。辛好さんにシゴいてもらって、本当によかった)



 神様のイタズラとも冗談とも思えるこの状況は、今となってはありがたく、香織の現実になってきている。



(わたしなんか、じゃなくて、わたしでいいんだ。前世、わたしがキッチンで日々奮闘してきたことは、誰に対しても胸を張れる事実だもの。なにより、尊敬する辛好さんが、わたしでいいって言ってくれたんだから)


 もう、迷いはない。


(食堂をよりよくするための資金調達アルバイトだけど、辛好さんが吉兆楼の味を守り続ける作業のお手伝いと思って、全力でやろう!)


 香織は、勢いよく厨の扉を開けた。



「辛好さん、こんにちは! 今日もよろしくお願いしま――」

「うるさいっ。声がでかいんだよ、おまえは! とっととそっちのかまどの火をおこして、準備しなっ」



 いつも通り怒鳴られて、香織はたすきを袖にかけつつ「はい!」と笑った。

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