第四十三話 小さくても、大きな一歩
開け放した厨の小窓から、近所の子どもたちの遊ぶ声が聞こえる。
小英は中庭で洗濯物を片付けている。
華老師は薬草を
いつもの夕方の風景。
そんな、何気ない日常の風景が、香織の胸をいつも温かくした。
前世では、忘れかけていた温かさだ。
その温かさのおかげで、疲れていても厨に立てば気合が入る。
「よし。作るぞー」
「今日の献立は……鶏肉と大根の
今日は華老師と小英が、往診の帰りに市場で鶏肉を購入してきてくれたので、新鮮なうちに長持ちする調理をすることにした。
この世界には冷蔵庫がないので、肉は手に入った日に調理しないと、腐らせてしまう。
まずは鶏肉を油で炒めて、丁寧に旨味をとじこめてから、大根といっしょに少な目の水を入れて煮る。
鶏肉の旨味が大根に染みてきたところで、甘辛く
炒りつけることで、しっかり味がしみて、数日は食べられるからだ。
ついさっき、
「炒り煮は、明日、あまったら食堂でも出せるように、大根を使いきっちゃおう」
食堂に持ちよってもらった大根をたっぷりと使いきって、明日の算段もつけたところで、「ごはんだよー」と香織は大きな声を上げた。
♢
「今日の食堂の献立のオニギリって、美味いね!」
夕飯の食卓を囲んで、小英が言う。
「こうやって、茶碗によそってある白米も美味いけどさ。それとはまた、別の美味さなんだよ。不思議だよね、同じ白米なのに」
「うむ。たしかに、そうだな。こうやって握られているだけで、何か別次元の食べ物のように美味くなるのだ」
耀藍は手におにぎりを持って満足そうにうなずく。帰り道に約束したので、香織は耀藍の白米をおにぎりにした。
「美味しく食べられるのはいいことだと思うけど、耀藍様、食べ過ぎじゃない? やっぱり五個は多かったんじゃないかなあ。お米の減りも、心配ですし……」
耀藍の強いリクエストにより、おにぎりを五個にぎったが、米俵二つ、これではあっという間になくなりそうだ。
「心配しなくてもだいじょうぶだぞ、香織。オレはおにぎりなら何個でも食べられる自信がある!」
「なんの自信じゃ、それは。だいたいおぬしは、食べ過ぎなんじゃ」
華老師がすかさず隣からツッコむが、耀藍はまったく気にせず、むしゃむしゃとしかし上品におにぎりをほおばる。
「また実家から米を持ってくるから、どんどんおにぎりにしてくれ!」
「ほう、それはよいのう。香織、よかったのう。オニギリは食堂でも人気だったようじゃ。近所の者たちが、驚いておったわい。あんな食べ物は見たことがない、また食べたいとな」
「喜んでもらえたなら、よかったです!」
前世では当たり前の食べ物だったおにぎりが、こんなに喜んでもらえるなんて。
(あとは、食堂で使う材料を、わたしが自分でまかなえるようになれれば、いいんだけど……)
その願いが、天の神様に届いたのだろうか。
次の日、吉兆楼へ行くと、いつもは誰もいない薄暗い玄関広間に、胡蝶が座っていた。
「いらっしゃい、
「ほ、本当ですか?!」
悲しさや怒りで頭が真っ白になったことはあるが、うれしさで頭が真っ白になるのは初めてだ。
前世の遠い昔、就職活動で内定をもらったときも、ここまでではなかった。
(あのときもうれしかったけど、なんていうか……自分の手で勝ち取った感がすごいあるわ)
うれしさで震える手を合わせて、香織は胡蝶に頭を下げる。
「あ、ありがとうございます! 一生懸命、働きます!」
(これで華老師宅の厨を痛めないですむわ……! もっともっと、近所の人たちのためにお惣菜を作ることができる!)
この異世界で食堂を営んでいくためには、もっともっといろんな工夫や研究が必要だろう。それらに比べれば、仕事が正式に決まったことは、小さなことかもしれない。
それでも香織にとっては、夢への大きな一歩に感じる。
「はい、これ。試用期間ごくろうさま。少しだけど、お給金よ」
胡蝶が、和紙のような綺麗な紙に包んだ物を手渡してくれる。
「えっ! 試用期間なのに、お給金をいただくなんて、申しわけないです」
香織がもじもじしていると、胡蝶が香織の手に包みをそっと押しつけて、ささやいた。
「あの辛好のシゴキに耐えた、初めての子だもの。その根性を
ハッとするほど美しい花の
♢
薄暗い玄関広間で、和やかに話している胡蝶と香織を、こっそりと見ている影があった。
「くっ……なによあいつ、ほんとうにここで働くわけ?!」
悔しそうにつぶやいたのは、吉兆楼の売れっ子
「しかも厨で働くですって……? バカにしてるわ!」
あれほどの器量なら、すぐにでも座敷に出ておかしくない。
胡蝶は、きちんと努力を認めてくれるが、実力主義のところもある。
器量でも芸事でも、何かに秀でた者は、経験を問わずどんどん上客の座敷に上げた。杏々も、赤い髪と翡翠の瞳が珍重されて、すぐに座敷に上がったクチだ。
「あの香織って女も、すぐに座敷に出されると思っていたのに」
厨で働くなんて――信じられない。
「ううん、あの女、きっと様子見のつもりなんだわ」
杏々たち三姫が油断している間に
「そんなことさせない……!」
どれだけ苦労して、吉兆楼三姫の座に輝き続けていると思っているのだ。
日々肌の手入れをし、化粧の仕方を工夫し、踊りに歌に二胡に琴、厳しい芸事の稽古に耐え、食べたい物も我慢して痩身を保っている。
「あんなポッと出の小娘なんかに、三姫の座を奪われてたまるもんですか。そうだ、
杏々、寧寧、梅林。三姫で協力すれば、あんな小娘を追い出すことなど、造作ない。
ほくそ笑んだとき、ぐうう、と情けない音がした。
「お腹空いた……
昨日は、前の日から水しか採っていなかったのがよくなかったのか、ちょっと小物屋に買い物に行っただけなのに、道で倒れてしまった。
「そういえば、あのとき
白米を固めた食べ物だったのだが、中に甘い味付けをした昆布と、ネギ入りの味噌が入っていて、この世のものとも思えない美味しさだった。
甘い物など、いつ食べたか記憶にもないほど我慢していたので、朦朧とした意識の中、つい減量のことも忘れてその白米のかたまりを二つも食べてしまったのだ。
「あの不思議な食べ物のおかげで元気になったから、今日はしっかり減量しなくっちゃ。あのいまいましい小娘を追い出す策を、考えなくちゃね」
そっと寝間着の
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