第四十二話 辛好と胡蝶の約定
香織が吉兆楼の厨を出ると、夕陽が中庭の梅や桜の木を黄金色に照らしていた。
「う、うう、手が痛い……でも、すっごく勉強になったわ!」
辛好は、一言で言えばプロだった。
包丁の扱いから食材の切り方から下ごしらえまで、すべてが目を瞠るものだった。
前世主婦歴15年、調理に関しては一通りのことはわかっているつもりだった香織でも、目からウロコの技がたくさんあった。
「かなりご年配だと思うけど、そんなこと感じさせない技術だったわ」
不機嫌そうで、相変わらず怒鳴り散らすが、辛好は教え方が熱心だし、しっかしとした信念がある。
お客さんに、美味しい料理を食べてもらいたい――その一点だ。
美味しい料理を食べてもらいたいという気持ちは、香織にもよくわかる。そう考えれば、香織が勝手にサトイモの茹でこぼしをしたことを怒るのも、うなずける。
よかれと思っても、吉兆楼の料理の完成形をわかっている辛好に従ってこそ、吉兆楼の料理の質が守れるから。
「これからは、辛好さんの言うことをきちんと守っていこう」
信じれば、信じてもらえる。
そう、信じて――。
「――って、耀藍様?!」
吉兆楼の少し先の甘味屋の店先で、さめざめと泣いている耀藍を見つけて香織は駆け寄った。
「どうしたんですか一体?!」
「……お腹空いた」
「は?」
「お腹空いたんだよぅ香織ー、しょっぱいものが食べたい。香織のご飯が食べたいーー」
そう言って端麗な目元を手拭でぬぐう耀藍の脇には、あんみつを食べたらしい器が三枚、積みあがっている。
「お腹空いたって……おにぎりは食べましたか?!」
「食べられなかった」
「は?! どうしてですか?!」
「それが……」
耀藍の話は、こうだ。
耀藍が行きつけの甘味屋の店先で、おにぎりの包みを広げ、いざ食べようとした矢先、目の前で妓女らしき者が倒れた。
その妓女は、あまりにもガリガリに痩せているので、かわいそうに思い、「食べるか?」と差し出した。
「そうしたら、二つとも食べてしまったんだ! オレは二つともやるとは言ってないのにーーー!!」
耀藍はそう言っておいおい泣く。
「もう、子どもですか貴方は! わかりましたから、そんなに泣かないでください。帰ったら、また作りますよ、おにぎり」
「ほんとうか?!」
涙にぬれたアクアマリンの瞳が、パッと輝く。
「はい。だから早く、帰りましょう」
「うむ!」
そこでようやく耀藍が立ち上がり、二人は帰路についたのだった。
♢
開店前のたそかれ時、胡蝶は厨で、今日の料理の味見をしていた。
すべての作業を終えた辛好が、竈の脇で煙管をふかしている。
「胡蝶」
「なあに、辛好さん」
「あの娘、香織といったか。あれを、ここで使ってやってもいい」
胡蝶の美しく弧を描く眉が、驚きに上がった。
「ほんとう? びっくりだわ! 辛好さんが誰かを使うなんて、初めてじゃない!」
これまでも、吉兆楼の厨で働きたいという娘や板前は掃いて捨てるほどいたが、かたっぱしからイビり倒して追い出してきた辛好だ。
「正直、貴女のイビリにあって、心が折れちゃうんじゃないかって心配してたんだけど。香織、だいじょうぶそうなの?」
「ふん。虫も殺さないような可愛い顔して、なかなかホネのある娘だよ。いまいましい」
辛好は煙を盛大に吐き出す。ほめているのかけなしているのかわからないが、そもそも辛好が人物評をすること自体、珍しい。
「気に入ってくれたのね、香織のこと」
「はん。ちょっと使ってやるだけだ。ヘマやったら速攻クビだ」
「あら、あたしに黙ってクビにはしないでね?」
「うるさいね、わかってるよっ。あの娘、金が要るんだろう」
花街に売られてくる娘、働きたい娘は、皆なにがしかの事情を抱えている。そして皆、金を必要としてるのだ。
花街で生きてきた辛好は、ちゃんとそのあたりを見抜いている。
胡蝶が、小皿の吸い物に口をつけつつ、うなずく。
「そう。なんかね、お金が必要みたいなのよ。でも妙なの。あの子、白龍様のような羽振りのいい方とも親しいみたいだし、噂で聞いたんだけど、華老師のところに居候してるっていうのよ」
「なんだって?」
華老師は、花街でも有名だった。建安の都に医師は多いが、それはほとんど貴族御用達。庶民を診る医師は、ほとんどいない。
華老師は、そのほとんどいない庶民を診る医師の一人として、下町では名が知られていた。
「華老師が、若い娘を働かせるとは思えないが……」
「そうなのよ。だから、なんか事情があるんじゃないかしら。いずれにせよ、辛好さんの気が変わってくれて、よかったわ。吉兆楼の厨もこれで安泰ね」
「はんっ。あたしを厄介払いする気だろうが、そうはいかないよ!」
「もう、歳とってひがみっぽくなったわねえ、辛好さん。これはあたしなりの気遣いなのよ」
「気遣い? おまえの口からそんな言葉が出るとはね」
「あら、失礼ねえ。吉兆楼を建安一の妓楼に押し上げてきたのは、あたしの手腕と美貌、それと辛好さんの料理があってこそだわ」
遊郭は、良い妓女がそろっていることがもちろん大事だが、それと同じくらい、料理がきちんとしていて美味しい、というのが、最高級妓楼の条件でもある。
妓女と料理。この二つの条件が超一流であればこそ、建安一の妓楼といえる。
その品質を、今日まで胡蝶と辛好とで、守ってきた。
「ふん。おべんちゃら言ったって、何も出ないさ」
「本当にそう思ってるわよ。一人であの厨房を回すのは、大変でしょう。厨房の片側、もうだいぶ前から火を入れてないこと、知ってるんだから」
「…………」
「火の管理ひとつ取っても、昔のようにはいかないでしょう。だから、辛好さんがまだまだ余裕があるうちに、後継者の育成が必要だと思っていたの。そこへ、あの娘がやってきた」
味見を終えた胡蝶は、辛好の隣に腰掛け、懐から銀細工の美しい煙管を取り出した。
「これも、何かの巡り合わせだと思わない?」
「……ふんっ、好きにすればいいさ。ここはおまえの店だ」
「あたしと辛好さんの、でしょ?」
胡蝶は静かに紫煙をくゆらせ、微笑んだ。
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