第四十一話 吉兆楼の厨の主


 おにぎりは大好評のうちに、あっという間になくなった。



「よかった……海苔を巻いちゃったから、たくさんあまったら、どうしようかと思っていたのよね」

 胸をなでおろす香織の隣で、耀藍がアクアマリンの瞳を憂い気にかげらせ、香織をのぞきこむ。

 周囲が見れば切ない恋の告白でもしているようなつやっぽさをかもし出す耀藍だが。


「オレのおにぎりは、なぜふたつしかなかったんだ? 櫂兎や勇史は三つ食べてたぞ? 香織はオレのことが嫌いなのか?」

「~~~っ。さっきのと、今から花街で食べるぶん合わせて四つでしょう! ていうか、子どもと比べないでくださいっ」

「うう、だって、も一個食べたかったんだ、おにぎり……」

「はいはい。もうすぐ食べられますよ! ほら、着きました」


 吉兆楼の店先に立ち、香織は耀藍をくるりと振り返る。


「お願いですから、今日はおにぎりと甘味で乗り切ってくださいねっ。また耀藍様と一緒に来たことがバレたら、妓女たちにまた責められちゃいますから!」

「そ、そうなのか香織……責められたのか?! す、すまん、関係のない人間を仕事先に伴うのは、たしかに迷惑だったな」


(そうじゃなくて! 耀責められたんです!)

 あの上客の白龍はくりゅう様(耀藍が花街に来るときの偽名らしい)とあんなに関係深そうな女は何者?! という女たちの鋭い視線だ。


「ま、まあとにかく、あたしはずっと厨から出ませんし、怪しげなこともしませんから! その点は安心して紅蘭様にご報告してください」

「うむ、今日は倒れたりしない。今日は香織の作ってくれたおにぎりがあるからな!」



 耀藍は、機嫌よく、行きつけの甘味やへ去っていった。



「さて、わたしも早く厨へ行こう」


 誰もいない玄関広間を抜け、中庭に出る。

 夜とはうってかわって静かな吉兆楼の中で、うっすらと煙を吐き、ここだけは起きていると感じさせる厨。


――しかし。


 扉を開けるなり、辛好しんこうが仁王立ちでまちかまえていた。



 ぎょっとする香織だが、懸命に笑顔を作る。

(とりあえず笑顔で挨拶、あいさつ)

「あ、あのう、こんにちは。今日もよろしくおねが……」

「あんた、煮物に何したんだい」

「へ?」

「昨日の煮物だよっ。あたしが言ってないことを、あんたやっただろう。何をやってのか言えって言ってんだよ!」

「は、はいっ、ええっと……」


 よくよく昨日のことを思い返し、やっと、思い当たる。


「辛好さんに言われていないことといえば、サトイモをでこぼしたことでしょうか……?」

「余計なことするんじゃないよっ」


 間髪入れず、辛好が怒鳴る。


「あんたは言われたことだけやってればいいんだっ。異国の娘だか何だか知らんが、ちょっとぐらい厨仕事ができるからって調子に乗るんじゃないよっ。ここは家の厨とは違うんだっ!」


 喰いかかってきそうな勢いで怒鳴ると、辛好は背を向けて自分の作業場へ行ってしまった。


(な、なんであんなに怒っているんだろう……)


 たしかに、サトイモの茹でこぼしは辛好に指示されていなかった。

 しかし、ここはお店だし、茹でこぼしたほうが見た目良く仕上がる。味も上品になる。

 よかれと思って、香織はやったのだが。


(やっぱり、怒られちゃったな……)

 鼻の奥がツン、とする。


 視界がにじみつつも、香織はたすきで上衣をまくり、手を洗う。

 よかれと思ってやったことなのに、どうして……。


――こんなことを、かつて、思ったことがあった。


 ハッと、顔を上げる。いつだったか。あれは――


(そう。結婚したての頃だわ。夫の実家に行ったとき)

 年末、正月に食べる用の煮物に入れるこんにゃくを、飾りこんにゃくにしたことがあった。

 それを、後で義母に、こっぴどく怒られたのだ。


(あのときも、余計なことをするんじゃない、って言われたな)



 あの時は、まだ若く、自分の調理が未熟だからだと思っていた。

 でも、そうじゃなかったのかもしれない。



(お義母さんと同じように、お義母さんの思い通りにできてないから、なってない、って言われたのかもしれない)

 それを老人のワガママだと思えば理不尽で腹の立つことかもしれないが、ちがう見方もできる。



 台所の主は、一人でいい。

 前世、主婦歴を重ねるうちに、香織はそう思うようになっていた。



 テレビで、ある有名レストランの厨房を取材したドキュメンタリー番組を見て以来、そう思うようになった。

 シェフが指示を出し、他の人々はそのシェフの言う通りに動く。食材の切り方から、煮込み、焼きの時間まで、じつに細かい部分までもシェフの指示通りにしていることに驚いた。



 シェフの理想にすべてを近付ける――それでこそ、その厨房全員が目指す、理想の料理というものができあがるのだそうだ。



(そうだとすれば、夫の実家のキッチンの主はお義母さんだし、この吉兆楼の厨の主は、辛好さんだわ!)


 そうであれば、昨日、自分のしたことは、なんと思いあがった余計なことだったのだろう。

 辛好が怒るのも、無理はない。



 香織はだだだ、と辛好に駆け寄った。


「辛好さん!」


 辛好は香織の勢いに驚いた様子で少し身を引きつつ小言も忘れない。

「な、なんだいっ、いきなりっ。厨の中で走るんじゃないよっ。食材になにかあったら――」

「あのっ、昨日はよけいなことをして、すみませんでした!」

「わ、わかればいいんだ。さっさと今日の仕事をしなっ」


 しっし、と犬猫を追い払うように辛好は手を振るが、香織は引き下がらない。



「食材の切り方を教えてください!」



 香織の申し出に、辛好はシワに埋もれた目を見開く。


「なんだって?」

「食材の切り方を、一から教えていただけないでしょうか」

「はんっ、やっと化けの尻尾を出したかいっ。包丁も満足に使えないクセに厨で働きたいなんて図々しいにもほどが――」

「そうじゃなくて! を教えてもらいたいんです!」

「はあ? 何言ってんだい、あんた」

「たとえば、煮物一つでも、食材の切り方って人それぞれです。にんじんひとつ、大根一つ、ちがいます。おばあさんなら、どう切るか、どう作るかを教えてほしいんです」


 すると、辛好のしわくちゃの顔が、怒気で染まった。


「なっ、なに言ってんだいっ。あんたも、あたしに隠居しろってのかいっ。あたしゃまだまだ元気だよっ。なのにあんた、このあたしに取って代わろうなんて、つくづく図々しい小娘だっ」


 香織も負けじと大声を張る。


「ち、ちがいますっ。とんでもないですっ。この吉兆楼の料理は、辛好さんにしか作れませんから!」



「なっ……」

 辛好は口をあんぐり開けて、むきかけのにんじんを手に持ったまま、固まっている。


「だからこそです。辛好さんの作り方、切り方、それらを完璧に再現してこそ、あたしにも吉兆楼の料理のお手伝いができると思うんです。だから、教えてほしいんです」


 香織の話の意図を理解したらしい辛好は、視線をせわしなく泳がせる。


「は、はんっ、あんたみたいな小娘に、あたしと同じことができるもんかっ」

「もちろん、辛好さんとまったく同じには無理かもしれません。足元にも及ばないかもしれない。それでも、辛好さんのやり方を知っているのと知らないのとでは、出来上がる料理に差が出ると思うんです。知っていれば、辛好さんが思った通りの料理に近付けると思うんです」

「…………」

「ダメですか?」


 辛好は、ふい、と香織に背を向けた。


(やっぱり、そもそもあたしは嫌われているみたいだし、ムリかな……)


 そうなると、吉兆楼で働くことをあきらめなくてはならないかもしれない。


 すごすごと自分の作業場に戻り、野菜を洗っていると、後ろから背中を叩かれた。


「おいっ、人に聞いといて、なに勝手に話を中断してるんだいっ。早く包丁持ってこっちに来なっ」


 香織は驚いて、そして次の瞬間、胸の奥底から熱いものがこみあげる。

(わかってもらえたんだ……!)

「あ……ありがとうございますっ」

「うるさいっ。まだなんにも教えちゃいないよっ。とっとと野菜籠を持って、こっちに来なっ」

「はいっ」


 それからみっちり、香織は本日の料理の下ごしらえをしながら、辛好流の食材の切り方をみっちり仕込まれたのだった。


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