第三十九話 辛好と胡蝶の会話


――華家の食卓に笑い声が響いている、その頃。


 色とりどりの明かりが灯る花街、ひときわ絢爛豪華な吉兆楼。


 その中庭に、この世で最も美しいと称賛される妓女がそっと出てきた。

 夜闇に飛ぶ美しい蝶のように中庭をすりぬけ、片隅に建つ厨の扉にすべりこむ。



「辛好。今日の煮物、いつにもまして絶品じゃないの!」



 美しき妓女――吉兆楼の店主・胡蝶は、上機嫌で竈の横にある椅子に座り、不機嫌そうな老婆に話しかけた。


「うるさいねっ、そんなことを言いにわざわざ来たのかいっ。仕事しなっ」

「あらあら、ずいぶんご機嫌ナナメねえ。あののこと、そんなに気に入らない?」

「……聞くぐらいなら最初から送りこむんじゃないよっ、あんな娘っ」


 客用と妓女用の汁鍋を交互に見ながら、辛好は舌打ちした。


「仕方ないでしょ。魯達様の前で約束しちゃったし。それに、あたしはああいう一生懸命だけど不器用そうな娘って、放っておけないのよ」

「ふん、綺麗ごと言うんじゃないよ。今まで、厨で三日ともった娘はいないんだ。身をもって現実を知らせて厨をあきらめさせて、座敷で使うつもりなんだろ。魂胆が見えすいてるよ」

「あーら、そんなこともないのよ、今回は。まあ、厨でも座敷でも、どっちでも使えるなって思ってはいるけど」

「はんっ、厨じゃ使いものになんぞならんわっ、あんな小娘!」


 吐き出すように言うと同時に、辛好は、妓女用の汁鍋からすくった灰汁をじゃっと勢いよく捨てる。

 その灰汁が衣にかからないように、胡蝶は器用に裾をたぐった。


「そうかしら? だってもう、三日目でしょ? 少なくとも、これまでの娘たちより根性はあるんじゃない?」

「根性じゃ料理は作れないだろうが」



 胡蝶は、辛好から手渡されたわんに、そっと赤い花びらのような唇を付けた。



「――ん。澄んで絶妙な塩味。極上の吸い物だわ。ほんと、辛好の料理は最高よ。あなたより信頼できる料理人って、他にいないわ。でも」


 胡蝶は、椀を返しつつ、きらん、と目を光らせる。


「今日の煮物が格段に美味しかったのって、香織のおかげなんじゃないの?」


 とたんに、老婆がくわっと目をむいた。


「馬鹿なこと言うんじゃないよっ。あんなド素人の小娘に調理なんかさせるわけないだろっ」

「わかってるわ。香織がやったのは、野菜の皮むきと下ごしらえでしょ?」

「わかってんなら聞くんじゃないよっ」

「その下ごしらえで、香織はたぶん、何かひと手間加えたんだと思うの。辛好に指示されてない何かを」


 辛好は黙っている。さらに胡蝶は続けた。


「気付いてるんでしょ?」

「…………」

「今日の煮物って、昔、あたしがまだ売れっ子になる前に、辛好が作ってくれた煮物の味なのよね」

「……美味しさがちゃんと残るなら、省ける手間は省く。こっちは一人でやってんだ。文句あるのかい」


 ふふ、と胡蝶の赤い唇が美しく弧を描く。


「まさか。言ったでしょう、あたしは辛好を信頼してるって。その辛好と同じ質の調理ができる人材は、この吉兆楼にとっても、辛好の健康にとっても、大事。そう思ってるだけよ」

「……余計なお世話だ。とっとと仕事に戻んなっ」

「はいはい」



 胡蝶は来たときと同じように、そっと厨を出ていく。



「約束の一週間まで、あと四日か。さて、どちらに転ぶかしらね、香織は」

 夜闇に飛び立つ蝶のように、胡蝶は帯を翻して煌々と輝く楼へ戻っていった。


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