第三十七話 もしもまた、結婚するなら

 茜色の夕陽が、長身の影と小柄な影を通りに作る。


「ねえ、悪かったって香織。腹が減って耐えられなかったんだよぅ」

「大きい身体して、子どもみたいなこと言わないでくださいっ」



 これで本当に、宮廷の地位ある術師なのだろうか。

 あれから耀藍は、おとなしく花街の茶屋で甘味を食べて待っていたようで、香織が吉兆楼から出てくるといつの間にか隣を歩いていた。



「それに、オレは何も言ってないんだよ? 腹が減った、と思ったらちょっとふらついちゃって、ちょっと休ませてもらおうと思って店先に座っただけなんだ」


 悪びれずに青い双眸を微笑ますイケメンを見て、香織はふかーく溜息をついた。


「自覚のないイケメンはおそろしいわ……」

「え? なに?」

「なんでもありませんっ。とにかく、もう仕事先には来ないでくださいねっ」

「えー、そういうわけにはいかないよ。姉上に叱られるし。香織ともども」

「~~~~っ。じゃあ二度と店先で倒れないよう、おにぎり持参で来て下さいっ」

「お、やったー! 香織がなんか、新しい料理を作ってくれるのか? オニギリっていうのか?」


 どうやら、おにぎりを知らないらしい。


「お米を、こう、三角にまとめて、海苔を巻いて食べるんですよ。中に、具も入れます」

「おおっ、なにやら美味そうな食べ物だな! 白米と合うというなら、オレはあの香織が作った佃煮というやつがいいな!」

「あ、いいですね佃煮。合いますよ、ごはんに。じゃあさっそく明日のおにぎりの具は佃煮に――って」


 ハッとする。いつの間にか耀藍のペースになっている。


「もーっ、ダメじゃんあたしっ。しっかりあたしっ」

「ん? どうしたんだ香織。疲れたのか? よし、術を使って帰ろうじゃないか」


 耀藍が懐から、ぴっと札を取り出し、口元で呪文を唱える。


(もうっ……イケメンのくせに自覚ないし、優しいし、ピュアだし、大金持ちだし……そりゃ妓女が、ていうか女ならほっとかないわよ)


 ヤキモキしているのは、耀藍が吉兆楼での仕事のじゃまをするのではという懸念からだったが、なんだか違う方向に心配になってきた香織だった。





「おかえり! 香織!」


 小英が玄関口からパタパタと走ってくる。


「ただいま」

 おかえり、ただいま、という言葉のラリーが、こんなに温かな気持ちになることをかみしめる。

(いつ頃からだったかな、おかえり、って言っても、返事がなくなったのは……)

 トラックに轢かれる日の朝も、「おはよう」と言っていたのは香織だけだった。

 おはよう、おかえり、おやすみ。

 どれを言っても、誰からも返事が返ってこない。

 結衣が挨拶の代わりに「頼んだ物、買ってきてくれた?」と確認するくらい。


 それが、死ぬ直前の家庭内の会話だった。


(今考えると、あの状況って普通じゃないわよね……)



 どうして、いつから、あんな冷え冷えとした家になってしまったのか。



(もう同じ過ちを繰り返さない。もし、この世界で結婚することがあったとしたら、毎日笑いが絶えない、挨拶も気持ちよくできる家庭を作るんだ)



 そう思ったとき、急に耀藍の顔が脳裏をよぎる。



(ばっ、バカばかっ、わたしバカっ。なんで耀藍様が思い浮かぶわけ?!)


 たしかにイケメンだが、あんな人!


(あんな人……ええっと、あんな人だから、あんなだから……)


 あんな人、の「あんな」の部分が思い浮かばず、香織はジダモダする。


(耀藍様の欠点って……どこ?!)


 必死で考えていると、袖を引っぱられてハッとした。


「香織、どうしたんだ? 顔が赤いよ? 疲れて熱でも出たんじゃないの?」

「えっ? だ、だいじょうぶよだいじょうぶ! ぜんぜん疲れてなんかないよ! ははは」


 あわてて顔をぺちぺち叩くと、小英もにっこり笑った。


「今日のおじやもとっても美味しかったよ! 往診の帰りに、近所の人たちから聞いてたから楽しみにしてたんだけど、ほんとうに美味しくてさ。材料は同じはずなのに、俺が作ったのとぜんぜん味が違うんだよなあ」

「小英が作ったものも、美味しいよ」

「でも、俺は香織が作ったものの方がいいや」

「ふふ、ありがと。すぐに夕飯、作るね」


 竈に火を入れていると、華老師が籠を持ってやってきた。


「おお、香織。仕事はどうじゃった」

「はい! なんとかやってきました」

「耀藍は大丈夫だったのかの。仕事の邪魔をしたんではないのか」

「は、はい、まあ、だいじょうぶです。あはははは」

「ふむ。あやつの立場上、そなたに四六時中くっついておるのは仕方のないことだが……まあ、邪魔にならぬなら放っておけばよい」

「はい」

「それと、これはさっき、明梓めいしが届けてくれたんじゃ。採れたての青菜だそうじゃよ」

「わーい、美味しそうですね!」


 茎がしゃっきり、葉が青々としていて、みずみずしい。


(これでおひたしをしよう。それと……)


 疲れていても、美味しそうな食材を見ると献立が頭に浮かんできて、楽しくなる。

 けれど、支度をしていると、塩や味噌の壺がだいぶ減ってきていることにイヤでも気付く。


(やっぱり、食堂となると作る分量が多いから、調味料の減りも早いわよね……)


 辛好の不機嫌そうな顔を思い浮かべると、明日もあのシゴキかあ、とため息が出るのだが、ここは気合を入れ直す。


「早く仕事を認めてもらって、正規雇用してもらって、お給金をもらって、華老師宅の食材を買い戻して、食堂で使う物を自分で買ってこなくちゃ!」


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