第十五話 華老師宅の朝食風景
華老師宅の朝は早い。
というか、異世界の人々の朝は早い。
近所にはいくつか井戸のような水場がある。華老師の家には小さな水場があるが、飲み水はこの共用の水場の水が美味しいと聞き、香織は毎朝料理に使う水を汲みに来ていた。
「おはようございます」
「おう、おはよう香織」
「おはよう、香織、華老師のところはもう慣れたかい」
「はい、おかげさまで」
そんな会話をしながら近所の人々とすれちがう。
太陽が昇りはじめる頃には、近所の人々の大半は動き出している。
こちらの世界には電気がなく、明りが貴重な物だからだろう。
庶民は太陽と共に寝起きするのが基本のようだ。
この世界には火の他に、灯火石という明りになる不思議な石があるそうだが、それは大商家や貴族の邸宅でしか使われない高価な代物のようだ。
そんなわけで香織も夜明けと共に起き、竈に火をいれることから始める。
早起きには慣れているので、苦ではない。前世では夫のお弁当作りや智樹の部活の朝練のために朝食が早かったことから、朝は5時に起きていた。
基本的に午前中は往診に行く華老師と小英も朝が早く、いただきます、と手を合わせるのは六時すぎた頃だろうか。
時計がないので正確な時間はわからない。
けれどこの「なんとなく」という感じが香織はけっこう気に入っていた。
いつも時計やスマホを気にしながら生活していたんだな、と改めて気が付く。そして、そこから解放されるというのがこんなにも心安らかなことも。
「わあ、今朝も美味しそうだなあ」
小英がうれしそうに箸をとる。
昨夜の残りの白飯と大根を一緒に炊いた、味噌おじや。
野菜の切れ端を集めて作った、醤油味の汁物。
きゅうりの塩もみ。
これだけの朝食だが、華老師も小英もにこにこと器に向かっている。
(思えば、前世の朝食の食卓って、戦争みたいだったな……)
誰も笑わない。誰も美味しいと言わない食卓。
メニューはそれこそ、部活に行く智樹のことも考えて、サンドイッチを作り、おにぎりも作り、野菜をたくさん入れたスープに目玉焼きとベーコンに、シリアルに、ヨーグルトにバナナに……とテーブルいっぱいに食べ物が並んでいた。
それでも、こんなふうにほんわかと温かな食卓ではなかった。みんな、何かに追われるように黙々と食べ、ごちそうさまも言わずにあわただしく席を立ち、それぞれの場所へ出かけていった。
食べ物に溢れているのに、空気の寒々しい食卓。
なぜだろう、とぼんやり考えていると小英がきょろきょろと周囲を気にした。
「あれ? 耀藍様は?」
「あー……まだお休みなんじゃないかな」
香織はさりげなく聞こえるように答える。
……本当は、さっきのことを思い出してまだ顔が熱い。
ふーっと汁物を吹いてすすった華老師が、ほんわかと顔を綻ばせて言った。
「耀藍は朝が弱いとみえるのう」
(それですよそれ!!!)
心の中で激しく同意する。
弱いも弱い、完全に寝ぼけている。香織は野菜の切れ端で作った汁物をあわててすすった。
――数十分前。
「耀藍様? 朝食ですよ?」
『朝食も食べたいからぜったい起こしてくれ!』と耀藍が言ったので、香織は耀藍の部屋の扉をノックしたのだが。
「耀藍様?」
もう一度ノックする。やはり返事がない。
「どうしよう……放っておきたいけど、なんで起こさなかったんだ!って言われたら困るし……」
昨夜、屋敷から大量な荷を運びこんできた耀藍は、なんと術で生み出した式神を使ってあっという間に部屋を片付けた。
「内扉から出入りしてもよいか?」
香織の耳元で耀藍が妖艶にささやく。
「なっ、何言ってんですかダメに決まってるでしょう!」
顔を真っ赤にして叫ぶ香織にあろうことか「からかいがいがあって面白い」と言ってのけた耀藍は、しかし内扉を開けることはなかった。
(それなのに、あたしが耀藍様の部屋の扉を開けるってなんか……)
しばらく部屋の前でもじもじしていたが、けっきょく香織はそっと扉を開けた。
香織の部屋よりも少し広い部屋の壁際に、寝台がある。
「耀藍様……?」
近付くと、枕から銀色の髪が朝日を弾いてこぼれている。
「ぐっすり寝てるけど」
微かな寝息をたてて耀藍は寝ていた。白絹の夜着が質素な布団からはみ出ている。けっこう寝相が悪いようだ。
「耀藍様」
くー……
「耀藍様!」
……くう、くー……
「耀藍様っ!!」
しまった、と思うほど大声を出したのに、耀藍はいっこうに起きない。
「もうっ、起こせって言ったじゃないですか!」
智樹や結衣を起こすときのクセで、つい、耀藍の肩に手をかけてぐい、と引いてしまった。
その瞬間。
「ひゃあ?!」
逆に強くひっぱられた香織の身体が、勢いよく寝台の中へ引き込まれる。
(う、うわわわわわ!)
耀藍の胸の中にすっぽり入る形になった香織は、あわてて寝台から出ようとするが、がっちり胸に抱かれてしまって抜け出せない。
「ちょ、ちょっと耀藍様?!」
見れば耀藍は相変わらず軽い寝息を立てて眠っている。
演技ではなさそうだ。
「ちょっと……このっ、離してくださいっての……」
まるで香織を抱き枕のように包みこむように抱きかかえた耀藍の心臓の音が聞こえる。規則正しい、ゆっくりとした鼓動。
これで目が覚めているのだったら、よほど女慣れしている。
意外にもたくましい胸板に、香織の方があっという間に心拍数が上がる。
(このままこうしていたい……じゃなくて! 起きなきゃ! 起こさなきゃ!!)
「耀藍様っ」
ぐい、と胸を押す。かなり強い力で押すと、ようやく耀藍の腕から逃れることができた。
「はあ、ふう……もうっ、なんなのこの人、低血圧かなんかなの?!」
こんなに寝台の上でもみ合ったのに、まったく起きない。
「もう……知らないっ」
香織はほうほうのていで耀藍の部屋を出ていったのだった。
――そんなことを思い出し、ふたたび顔が赤くなるのを隠すように食べた器を土間へ運んでいると、
「ああっ、なんでみんなで朝食を食べているんだ! オレの分は? ていうか、なんで起こしてくれなかったんだよ
耀藍が居間で叫んでいるのが聞こえる。
「めちゃくちゃ起こしたっつうの……!」
香織はおたまを握った手をぷるぷる震わせた。
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