第十六話 仲直りの佃煮

香織こうしょく……、いいかげん機嫌を直してくれ」


 耀藍ようらんは器を並べる香織をおそるおそるのぞきこむ。

「オレ、ほんとうに朝が弱いのだ。香織が起こしに来てくれたこと、ぜんぜん気がつかなかった。オレ、香織に何かしたのか?」

「………」


 ほんとうに覚えていないらしい。それがまた腹が立つというか、恥ずかしいというか。


「と、とにかく、オレとの約束を守って起こしにきてくれて、ありがとう」


 こんなに素直に言われると、腹を立てているのがさすがに気まずい。

 しかし引っこみがつかずに、香織は無言でお盆を抱えたまま土間へ降りてきてしまう。


 しょんぼりと肩を落とした耀藍に、往診の支度をしていた小英がひょこっと入ってきて笑った。


「香織はそんなことで怒らないよ、耀藍様。それより、いつまで香織のこと見張ってるんだ? 起こしに来ても起きない耀藍様に見張りが務まるのか?」

「うう、ほんとうに怒ってないだろうか……香織のことは、姉上がいいと言うまで見張ることになるだろう。そして見張りの件は大丈夫だ! オレは夜はめちゃくちゃ強いからな!」

「耀藍様、よくわからないところで自信たっぷりだなあ。ていうか、香織は間諜なんかじゃないよ」

「オレもそうは思うのだが、姉上が納得しなくてはどうしようもないからな」

「紅蘭様が納得かあ。難しそうだね……まあいいや、俺と華老師は往診行ってくるから、ちゃんとご飯食べさせてもらいなよ」

「うう、小英、ありがとう」


 どちらが年上なのかわからない。


「香織、耀藍様を怒らないであげてよ」

 草履ぞうりを履きながら小英が言う。

「わ、わかってるよ。怒ってなんか……」

「おおかた、耀藍が寝ぼけて婦女子に失礼なことでもしたのじゃろう」

 さすが年の功。華老師はなんでもお見通しだ。

「まあ、ああ見えて悪気のない青年ゆえ、仲良く留守番を頼むのう」

「は、はい。ちゃんと留守番はするのでお任せください!」

「うむ」

「あ、それから……食堂、今日から始めてもいいでしょうか?」


 阿香あこう食堂――明梓めいしの提案を華老師に話すと、華老師は二つ返事で了承した。

 往診に行っている午前中の間、華老師宅のこの土間と居間を使ってもいいという。

『その方が、わしと小英も帰ってからおこぼれの昼食がいただけるからのう』

 華老師はそう言って笑ったが、もちろんおこぼれなどではなく、華老師と小英にはちゃんと昼食をとっておくつもりだ。


「もちろんよいぞ。この近隣はそうした気楽に寄れる食堂がなかったから、みんな喜ぶじゃろう」

「わーい、帰ってからの昼飯が楽しみだ」

「うん、楽しみにしていてね。では気を付けていってらっしゃい」


 そんなこんなで、華老師と小英はでかけていった。

 二人の後ろ姿をにこやかに見送り、ふと香織は思い出した。


(こんなふうに誰かを見送ったのも久しぶりだな)


 思い起こせば新婚の頃は、毎日夫が仕事へ行くのを見送り、帰ってくれば玄関で出迎えていた。子どもたちのことも、玄関で見送ったり出迎えなくなったのは、いつからだろう。


 月日というのは、生活というのは、人の心をすりへらす。


 今の気持ちは、ずっとは続かない。

 それは相手もそうなのだろう。

 だから。相手が自分を必要としてくれるうちは、全力でそれに応えた方がいい。


 香織は鍋替わりにした器をのぞく。くつくつと静かに煮立つその中には飴色に煮えた細かい昆布が入っている。

 出汁を取った昆布を集めて、佃煮にしたものだ。

 ゆっくりゆっくり火にかけて、二日間ほど似たほうが味がよくなるそれを小皿に少しだけ取って香織は居間に上がった。


「冷めちゃいますから、早く食べた方がいいですよ」

 さりげなく香織が言うと、弾かれたようにアクアマリンの瞳が香織を見上げた。

「怒ってないのか?」

 その様子が小さな男の子みたいで、香織は思わずくすっと笑ってしまった。

「怒ってませんよ。さあ、早く召し上がってください」

「よ、よかった。ではいただきます」


 打って変わったようにニコニコと箸を取り、耀藍は大きな手のひらで丁寧に器を持っておじやをすする。


「……沁みる。美味い」

 はー、と息を吐く姿を見て、香織は胸が高鳴った。


(こんなに美味しそうに、うれしそうに食べてくれるなんて)


 自分が作ったもので生き返る、と思ってもらえる。

 これこそ、主婦の醍醐味じゃないだろうか(もう主婦じゃないけど)。


 主婦歴15年のうちで、そんな醍醐味を味わえた期間はほんの少しだったかもしれない。

 いつの間にか、味気ない、冷たい食卓にすっかり慣れ切って。

 それをどうしたらいいのかもわからなくて。

 ただ家族のために食事をつくらなくては――義務感に追われるように、毎日台所に立っていたことに気付く。


「耀藍様、これをおじやと一緒にどうぞ」

 香織が小皿を出すと、耀藍は物珍しそうに小皿をじいっと見た。

「これは……なんだ?」

「佃煮、といって、白米に合う保存食です」


 耀藍は器用に箸の先で少しだけ佃煮をつまみ、口に運ぶ。


「……甘い!」

「ふふ、そうなんです、甘いんですよ」

「でも、たしかにこれは米に合うぞ」


 言いながらおじやをすすり、佃煮を口に入れ、を交互に繰り返す無限ループにハマった耀藍は、あっという間におじやを食べておかわりをし、佃煮も野菜の切れ端汁もたいらげた。


「香織はやはり、すごいな。我が家の料理人にもこの佃煮、というのを作ってもらいたいほどだ」

「じゃあ、今日から始める食堂で出汁に使った昆布を使って、また作りますね、佃煮」

「食堂? 食堂をするのか?」

「はい、華老師と小英が往診に行っている間、ここを使って近所のひとたちが立ち寄れる食堂をやることになってるんです。――あ、ほら、さっそく」



 にぎやかな話し声に戸口を振り返れば、明梓が入ってくるところだった。



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