第五話 玉ねぎのおひたし
小英が困ったように眉を寄せる。
「おそうざいって言っても、玉ねぎしかないよ? 今日は昼間は往診だったし、その……バタバタして市場にも寄ってないから」
バタバタして、の内容が、香織を助けるためだったというのは明らかだ。
ならばよけいに何か作らせてもらわなくては申し訳なさすぎる。
「だいじょうぶですよ。もしよかったら、ついでにお夕飯の支度もするので、小英さんもあちらでお待ちください」
香織がにっこりすると、小英は顔を真っ赤にして「小英でいいよ……まぁあんたがそういうなら……」とごにょごにょ言いながら台所の使い方を教えてくれた。
驚いたことに、道具や調味料はほぼ前世と同じだった。
華流ドラマのような世界だから中華の食事なのかと思いきや、鰹節や出汁昆布などの和風の食材もある。かと思えばやはり中華なのか八角や花椒のようなスパイスもある。
見たことも聞いたこともない調味料もいくつかあったが、今使うのは醤油と酢と鰹節だけだ。
水道の蛇口やシンクはないけれど、土間の隅の広い洗い場には小型のポンプのような物があって、押すと飲める水が出てくる。中国の水道水は飲めないと聞いたことがあるが、ここでは上下水道は整っているのだろう。
やはりここは中国ではない中華風の世界で、日本とはあまり食文化が変わらない世界らしい。
あまり裕福には見えないこの家の台所にも醤油、味噌、塩、砂糖、酢、と前世の一般家庭に普通にある調味料が揃っている。そこに八角や花椒や謎のスパイス類まで揃っているのだからたいしたものだ。
(よかった……水と食べ物が普段と似ている環境なら、なんとかやっていけそう)
そんなことを考えながら香織は違う鍋にその水を汲むと、チャーシューの鍋を一度下ろして鍋を火にかけた。
湯が沸くまでの間に、玉ねぎを三つ、半月切りにざくざくと切っていく。
そして、大きめの器に醤油と、その半量の酢、かつお節を入れる。
かつお節はもちろんたくさん入れた方が美味しいのだが、貴重なのか、とても大事そうにしまってあったので、ほんのちょっと、出汁が感じられる程度に入れる。
湯が沸いてきて、鍋がぐらぐらと大きな泡を吹いた頃合いを見て、切った玉ねぎを全て投入。
その間に、手早く器の用意をしようと思う。
(どうしよう、小英くんに聞きたいけど……)
居間では三人が談笑していいる。太謄がなかなかのお茶目気質らしく、老師と小英で太謄をいじっている感じだ。
台所のことは台所の主に聞いたほうがよい、というのは香織の経験論だ。
しかし、じゃまをするのも気が引ける。
少し悩んで、香織は見当がつくところだけ探すことに決めた。それで器が見つからなければ小英に聞こう。
竈の位置や洗い場の位置から、だいたいここかな、と思う場所にあった箱を開けると、やはりそこには器が入っていた。
「よかったあ、あったわ」
欠けたり、ひびの入った物も多いが、きちんと洗ってきちんと拭いて収納されており、大切に使っていることがうかがわれる。
他人の台所でもなんとか見当を付けて使えるあたり、自分は15年も主婦をやってきたんだものね、としみじみ実感する。結婚したてのときは、夫の実家に泊まりに行くと、勝手の違う台所に立つことで疲れてしまって、帰ってからぐったりしていたっけ。
そんなことを頭の片隅で思い出しつつ、適当な大きさの器を四つ並べておき、玉ねぎを鍋から上げる。
ザルはさすがにステンレスではなく竹を編んだような物だが、それがどこかノスタルジックでおしゃれな感じがする。
気分よくザルで玉ねぎの水気を切ると、調味料を合わせておいた器に入れて手早く絡め、なじませるために置いておく。
その間に小英が作ったチャーシューを切って別のお皿に盛りつけ、おそらく朝か昼の残り物であろう、まな板の隅に置いてあった青菜を添える。お櫃のような物に入っていたご飯を太謄、小英、元化医師、自分、の順で量を少なくしてよそいきった。
最後に器に浸った玉ねぎを少しつまんで味を見て、頷いた。
「ふふ、異世界でもできてよかった。玉ねぎのおひたし」
もう一品欲しい時、玉ねぎが安かったときに香織がよく作るおそうざいだ。
たくさん作って冷蔵庫にストックしておいて、サラダに混ぜたり冷奴にのせたりして食べる。だいたい三日で食べきる。
できたてはまだ温かく、玉ねぎの甘味が感じられて、肉料理に合う。
小さな器にたっぷりよそって、残りはとりあえず置いておく。サランラップはもちろんないだろうから、後で保存の仕方を聞こう。
ここまでしていいのか、とも思ったが、そこは主婦の勘というか、この台所の主はこういうつもりでこれを残しているのだろう、ということがわかったのですべて用意してしまった。
なにせ、お腹を空かせた人が目の前にいる。お腹を空かせた人には早く何か食べさせてあげなくちゃ、と主婦の性分で思ってしまうのである。
「お待たせしました」
香織ができたものを運んでいくと、三人とも目を丸くした。
「一人で今の時間に全部、用意してくれたのかい?」
「あ、あの、勝手にやってすみませんでした。もうお夕飯を食べるのかな、と思ったので……」
「いやぜんぜんいいんだよ。びっくりしたんだ、俺が夕飯に出そうと思っていた青菜とかご飯とか出てきたから。よくわかったね」
「手際が良いのう。だが怪我人に全部やらせて申し訳なかったわい」
「いえっ、いいんですそんなこと! 助けていただいたことに比べたら足りないくらいですからっ」
「なあ、食べていい?」
太謄は待ちきれない様子で箸を取り、いただきます、と言いながら香織が作った玉ねぎのおひたしを頬ばった。
「美味い!!!」
太謄は満足そうにむしゃむしゃと平らげていく。チャーシューを口にいれたら玉ねぎのおひたしを口に入れ、ご飯をかっこみ、あっという間に器は空になった。
玉ねぎのおひたし。
材料は醤油と酢とかつおぶしと玉ねぎだけ。
さっとゆでることで玉ねぎの甘味がぐぐっと出てきて、調味料はシンプルなのに後を引く美味しさと何にでも使える万能常備菜だ。
「なあ、これ、玉ねぎだけなの? すごく甘くて美味しい」
小英も箸を動かしながら感心している。
「これが玉ねぎだけの美味さならば、驚きじゃのう」
華老師も箸が止まらないようだ。
(う、うれしい……!)
前世では夫も子どもたちもただ無言で食べるだけで、料理についての感想など誰も言ってくれなかった。それが当たり前だと思っていたけれど。
作ったものを目の前で美味しい美味しいと食べてもらえることが、こんなにうれしいことだなんて……!
主婦歴15年にして――主婦歴は15年で幕を閉じたけれども――香織はこれまで味わったことのない、大きな充足感に包まれていた。
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