第四話 鍋が吹いたら


 そう言われて、サウナと五右衛門風呂が合体したようなお風呂場で汚れを落とさせてもらった。


「サウナに来るのなんて、いつぶりかしら」

 香織はうっとりとため息をついた。香織はサウナが好きなのだ。けれどここ十数年、サウナは子どもたちが嫌がるので、温泉やスーパー銭湯に行っても入ったことがない。

 ここは正確にはサウナとは言わないのかもしれない。窓から漢方薬のような匂いのする蒸気で浴室内が満たされ、それによって人が蒸される仕組みだ。

 薬効のありそうな蒸気が身も心も解きほぐしてくれる。

 格子窓からほどよく外の風も入ってきて、とても心地よい。


 でもきっとこんな原始的な方式では、風呂は特別なものに違いない。


 あまり裕福そうには見えないこの家で、見ず知らずの香織のために用意してくれたのかと思うと申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

 というわけで浴室内やお湯を汚さないように注意して、身体の隅々まで汚れを落として脱衣所に出ると、着替えが置いてあった。


 薄紅色のチュニックのような上衣にざっくりとしたパンツ。おそらく古着だが清潔にしてあり、柔軟剤を入れずに洗濯したような、懐かしいゴワゴワ感がある。


(私、ほんとうに転生したんだ。まったくの別人に生まれ変わってる)


 風呂に入りながら着替えながら、滑らかな白い肌や細いウエスト、そのわりに大き目な胸などが目に入って、自分の身体なのに他人の裸をのぞいているような恥ずかしい気持ちになる。


(どこかのお姫様だったのかしら)


 後で洗濯しようと脱衣所の隅に置いた衣装は、華流ドラマの宣伝で見たことのある後宮の妃嬪が身に付けるような衣装だ。汚れてはいるが濃いピンク色は華やかで、光沢ある生地はおそらく絹だし、アイテムすべてが一級品だと思われる。だてに主婦をやってきたわけじゃない。物を見る目はあるつもりだ。


(芭帝国、って言ってたな)


 転生したこの少女の事情はまったくわからないが、自分がどうやら43歳よりずいぶん若くなってしまったことは風呂に入ってよくわかった。





「本当にありがとうございました」


 三つ指ついて頭を下げると、老人と少年と巨漢は穴の開くくらい香織を見た。


「いやなんの。わしは華元化かげんかといって、町の医師だからのう。道で人が倒れておれば助けるのは仕事のうちじゃ。気にしなくてよい」

「おれは小英しょうえいだよ。元化老師の助手をしてるんだ。急病人とか怪我人の介抱は勉強になるから、気にすんなよ」


 なんという親切な人たちだろう。

 最近、人の優しさに触れていなかった香織は、感激して胸がしめつけられて、あっという間に目が潤んできた。


「助けていただいた上に、このように親切にしていただいて……本当に何とお礼を申し上げればいいのか……」


 涙を隠すためにいっそう頭を床につければ、老医師と少年は顔を見合わせる。


「礼儀も言葉も町娘や村娘とは思えんのう。やはりこりゃあ、もしかしてもしかすると、かもしれんな」

「そうですね、老師」


 ささやき合う二人の間に、にゅう、と大きな顔が割って入った。


「何の話ですか老師せんせい、小英? 約束の夕飯はまだっすか?」


 巨漢は可哀そうなくらい眉を八の字にして腹をさすっている。お腹が空いているのだろう。


「もう、ちょっと待っててくれよ太謄たいとうさん。いい大人なんだから。今作ってるところだよ」


 そう言われると、どこからかいい匂いがしてくる。見れば、出入口付近の土間では竈のようなところに火が入っている。そこに大きな鍋が置いてあって、ぐつぐつと煮えているようだ。


「あっ、吹きこぼれる!」


 主婦の条件反射だ。気が付くと鍋の蓋を開け、火加減を見ていた。

 幸い、前世でキャンプに行ったとき、こういうかまどのような場所で火を熾したことがある。夫は釣りに夢中で頼れず、子どもたちも遊んでいたため、煮炊きはすべて香織が一人でやった。キャンプにはその後も数回行って、その度に香織だけが煮炊きをする状況だったので、すっかりやり方や火加減の方法を覚えたのだ。


 手早く火を調整してから鍋を改めて除く。煮込み料理のようだ。


「あんた、手早いね。すごいや」

 小英は目を輝かせて感心している。子どもたちにはこんなふうに言われたことはないので、くすぐったくも嬉しい。

「い、いえ、そんな……あの、何を作っているんですか?」

「今日は豚肉が手に入ったから、日持ちがするようにチャーシューにしているんだ」


 確かに、タコ糸のようなもので肉がぐるぐると縛ってある。

 ていうか、この世界でも豚肉とかチャーシューとかあるのね。前世と食糧事情はあまり変わらないのかしら?

 よかった、と胸をなでおろすと同時に、なんだか漂う匂いが獣臭いことに気付く。

 鍋の中をもう一度よく覗くと、茶色い煮汁の中には入っていない。これは臭いわけだ。


「あの、すみません。生姜と、ニンニクと、ネギはありますか?」


 通じるかどうか、ダメ元で言ってみる。すると少年が土間の隅の食材が積んであるところからネギと生姜と玉ねぎらしきものを持ってきた。どうやら通じたらしい。よかった。


「ニンニクはないけど、ネギと生姜と玉ねぎなら。でもどうするんだい?」

「臭み消しですよ。包丁をお借りできますか?」


 香織はネギの青い部分を切って集め、生姜は洗い場にあった水でよく洗って薄切りにし、それをそっと鍋の中へ散りばめていく。

 少し経つとネギと生姜の爽やかな香りが立ってきて、獣臭さが和らいできた。


「こうすると、豚肉の臭さが減るんです」

「へえ、ほんとうだ! なんだかもっとうまそうな匂いになってきた」

(可愛いなあ、智樹も視線の高さがこれくらいだった頃もあったなあ)


 うれしそうに見上げてくる小英が可愛くて、香織もうれしくなった。


「そうだ、せっかく玉ねぎを出してきてくれたから、チャーシューと一緒に食べるおそうざいを作りましょうか」

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