第二話 震える手
「織田川さん、この品出しもお願いしますねー」
店長の西田がタブレットの画面を香織に差し出して見せた。
「これ。織田川さんの店員用スマホでもこの画面見れると思うんで、これ見てやってくれれば大丈夫なんで」
「はい、わかりました」
と返事はしたものの、慣れないスマホの操作と小さな画面に四苦八苦する。
駅前の大型チェーン雑貨店でパートを始めて三か月。今の若い子のスキルの高さには驚かされるばかりだ。
パソコンの操作が速いのは当たり前。今は何からなにまでタブレットやスマホで管理されているようで、その操作も速いし無駄がない。読み込みも速い。
(私が会社員だった頃のことなんて、もう化石みたいなものだわ)
十年以上も前の知識やスキルなんて、今はほとんど役に立たない。
自分が結婚して家庭に入って子育てをしている間に、時代はなんと変わったことか。
そんなことを考えながら店員用スマホをマニュアルを確認しつつ作業していたら、あっという間に昼近くになってしまった。
「織田川さん、品出し終わりましたー?」
「あ、すみません。まだ途中です」
「はーい、わかりました。じゃ、それ森田さんに引き継ぐんで、休憩行ってくださーい」
「え、でも」
「15分は休憩出てもらわないと。規定なんで。行ってくださーい」
あっさり言われ、香織は11時出勤の森田に残りの作業を引き継ぎ、自分の移動用バックを持って店舗の裏方へ引っこんだ。
15分の休憩を取らなくてはならない、というのもまだ慣れない。休むならもっと時間が欲しいし、15分しか休めないなら休まない方が楽な気もする。
更衣室までは遠いので、いつも店舗裏の事務所の隣、事務用品の置いてある小部屋で水筒を飲み、作ってきたおにぎりを食べる。これがお昼だ。
おにぎりを食べていると、壁越しに隣の事務所から声が聞こえた。
「おはようございまーす」
この野太い声は本社営業マンの岩本だ。こうやって本社からちょくちょく人が来て店の様子をチェックしていくのは大型チェーン店らしい。
「あー、どうも、岩本さん」
「西田、久しぶりだな。二年前の研修会以来だ。元気にしてるか」
「岩本さんのしごきが無くなって気がゆるみまくって三キロ太りましたよ」
どうやら二人は以前からの知り合いで、仲もいい先輩後輩らしい。
「ここの店どう? 立ち上がって三か月だけど」
そう。この店は三か月前、駅前に新しく出店した。そのオープニングスタッフとして香織はパートの募集に応募したのだ。
西田が大げさに溜息をつくのが、薄い壁越しに聞こえた。
「どうもこうも。パートが使えなさすぎて。ちゃんと面接したんですか? 人事に文句言いたいくらいです。あたしも面接参加したかったです」
「あ、そうか。西田は移動でこっちきたんだもんな。だからタイミング的に面接できなかったのか」
「そうですよ。店長なのに面接できなかったんですよ。パートでももうちょっと使える人材いるでしょうに。今日入ってるオバサンもやたら作業が遅いし」
今日入ってるオバサン。
9時出勤はパートでは香織ともう一人、大学生の男の子なので、それはどう考えても香織のことだろう。
全身が痺れるような感覚に襲われた。水筒を持つ手が震える。
「まあそう言うなよ。うちの会社は家庭用雑貨を扱っているから主婦パートさんの力は大きいんだ。主婦パートから社員になっていく人もいるし。最初はみんな、慣れるまで時間がかかるもんさ」
「時間かかりすぎです。主婦なんて、家でゴロゴロしてテレビ見て三食昼寝付きの生活してるから半分ボケてるんですよ。どうせパートだってお小遣い稼ぎなんだから、早く辞めればいいのに」
「おいおい、それは言い過ぎだろう、西田」
「即戦力が欲しいって言ってるだけです。ここは忙しい店舗ですから」
岩本がまあなあ、と大きく息を吐く。
「今はこんな世の中だから、家庭の主婦だって大変なんだ。西田も結婚したらわかるさ」
「わかりませんよ、あたし、結婚しても仕事辞めませんし。あ、岩本さん、これ、この前、学生のバイトの子が帰省土産って持ってきてくれたんで、食べていってください」
スマホの時計を見ると、既定の15分になろうとしていた。香織はあわてて立ち上がり、見つからないようにこっそり事務所の前を通過し、店へ戻った。
まだ手が震えていた。
――作業が遅いし。
――家でゴロゴロしてテレビ見て三食昼寝付きの生活してるから半分ボケてるんですよ。どうせパートだってお小遣い稼ぎなんだから、早く辞めればいいのに。
西田の言葉が針のように胸に突き刺さって、抜けない。
◇
香織はやることが遅い。
でもそれは、主婦だからではない。昔からそういう性格だった。おっとりしているとか慎重とか言ってくれる人もいるが、悪く言えば「遅い」のだ。
パート代はすべて子どもたちの塾や習い事の月謝に消えていく。この御時世、夫の給料はあまり上がらないのに子どもの教育費は智樹が中学生、結衣が高学年になる頃には爆発的に増えた。貯金を切りくずすのにも限界があり、パートに出ることにしたのだ。自分で使えるお金などあるわけがない。
パートが無い日に、パートを始める前にずっと家にいた時でさえ、昼間にテレビを見たことはない。子どもがもう少し小さかった頃はテレビの前にのんびり座っている時間やパートに出ている時間などなかったのだ。ひたすら家事と子どもの習い事の送迎や世話で手一杯だった。もちろん昼間にゴロゴロする時間も無い。
わかっている。西田は若いし、違う時代を生きている違う世代の人間だし、隣の芝生は緑だし、他人がどう思ってどう生活しているなど本当のところは誰にもわかりはしない。SNSでのぞける他人の生活は作り物だ。見せたい部分だけを見せたいように他人に見せているに過ぎない。
若い子にちょっと言われたからってなんだ。気にする必要ない。
頭ではわかっている。
わかっていても、あれからずっと震えが止まらない。
それはきっと、わかってしまったからだ。
私には何の価値もない。
誰にも、家族からすら必要とされない存在なんだ、と。
毎日クタクタになるまで家事をして働いても、自分の存在価値を認めてくれる人などいない。家族に責められ、他人にも価値の無いように言われ、それでは自分は何のためにこんなにボロボロになるまで頑張っているのだろう。
何のために。
目の前に信号があることに気付き、慌てて自転車のブレーキをかける。
しかし震える手はうまくブレーキを握れず、急に停まったために後ろからきた自転車に追突された。
「あっ」
横から轟音とクラクションの音が響いた。
トラックって間近に見るとこんなに大きいんだなあ、というのが織田川香織の最後の思考だった。
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