異世界おそうざい食堂へようこそ!

桂真琴

第一章 異世界で主婦の経験を活かして「おそうざい食堂」計画します

第一話 主婦、織田川香織の日常


 織田川香織の朝は、家族からの責めたてで始まる。


「ねえママ! この前話した『おどうぐサマ』の消しゴム、まだ買ってきてくれてないの?」

「あ、あー、あれね。ごめん結衣ゆい、ママ探したんだけど、スーパーにも文房具屋にもなくて」

「もうっ、あれMoftにしか売ってないって言ったじゃん!」

「そうだったっけ、ごめん」


 むくれる娘にスープを渡していると、ものすごい勢いで智樹がキッチンに入ってきて怒鳴った。少し前に身長を追い越されているので、息子に上から睨まれる。


「体育着がねえんだけど!」

「あ、ごめんね、昨日洗って乾いたやつ、智樹の机の上に置いたけど」

「はあ?! 朝練あるって言っただろうっ、んでんな所に置いてんだよクソがっ」


 反抗期真っただ中の息子が口汚いのは仕方がないので、聞き流すしかない。

 溜息をついて夫の弁当を包み、朝食用に作ったサンドイッチを家族の皿に分けていると夫が不機嫌オーラ全開で食卓に座った。卵のサンドイッチをかじりながら、じろりと香織を睨む。


「おい、ワイシャツにアイロンが掛かってないぞ。今日は会議でジャケット脱ぐかもしれないから、皺があると困るんだ」

「あ……そのワイシャツ形状記憶だし、そんなに皺になってないと思うんだけど」

「言い訳するなよ。家にいるだけなんだからアイロンぐらいかけられるだろう。前はやっていたことをやらないなんて、明らかに手抜きじゃないか」

「家にいるだけって……私、最近パートに出てるでしょ、だから前より時間が無くて」

「近所の雑貨屋でアルバイトしているだけなのに何が忙しいんだ」


 夫が吐き捨てるように言った。

 頭のどこかで、かすかに何かが小さく弾ける音がする。いやいやだめだめ、ここで言い返したらダメ。朝はみんなイライラしているんだから、言い返しても家族みんなが嫌な気持ちになるだけ。


 私が我慢してこの場がまるく収まるなら、それでいい。


「……ごめんなさい」

 香織はやっとそれだけを言った。夫は舌打ちをしてジャケットとカバンを持ち、ひったくるように香織が作った弁当をカバンに入れるとリビングを出ていった。


 その後ろ姿を見て、やはり皺は気にならないのでは、と思ってしまう。動いていればシャツには筋が寄るものだし、だいたいそんなにしげしげと他人のワイシャツなど見ていない。自分が会社勤めしていた頃を思い出しても、男性社員のワイシャツの皺なんて気にしていなかった。


 そんなことを夫に言えば、夫は激怒するに決まっている。

 だから香織はすべて諦めて飲みこむ。いつの間にか誰もいなくなった食卓で、家族が残した朝食の残り物と一緒に、すっかり冷めたコーヒーで流しこむ。





 パートに向かって自転車をこぎながら、自分の一日について考える。


 朝、夫の弁当と朝食を作りながら洗濯機を回し、家族に朝食を出しながら洗濯物を干し、部屋やお風呂の掃除や片付けをして、9時からのパートに出かける。

 14時にパートが終わって、スーパーで夕飯の買い物をして帰宅すると娘が帰っている。オヤツを出し、学校の宿題や習い事の支度を確認して送り出す。夕飯の準備をしながら娘の持ち帰ったプリント類に目を通したり洗濯物を片付けたりしていると息子が部活を終えて帰ってくる。

 最近、塾に行きはじめた息子に急いでご飯を食べさせ、塾へ送りだした後、習い事に行った娘を迎えに行って帰宅する。すると夫が帰ってきて、娘と夫がお風呂に入り、ご飯を食べる。お年頃になってきた娘は夫と一緒にお風呂に入らないので、二人別々に夕飯を食べる上に夫は晩酌するので夕飯が長い。その間にヒマを見つけて自分もお風呂に入り、上がってくると、すべて出しっぱなしの食卓を見てウンザリしながら夕飯の片付けをしながら洗濯機を回していると息子が帰ってきて、もう一度軽い夕飯を食べる。その間に次の日の弁当の準備をしながら息子が食べ終わるのを待ち、その後キッチンを片付けて、洗濯物を干す。

 気が付くと、11時になっている。

 朝は5時30分に起きるため、その頃にはもうクタクタで布団に倒れ込む状態だ。


 いったいいつ、アイロンをかければいいのか見当もつかない。


 家にいるだけ、と言うのなら、あなたも一度主婦をやってみればいい。

 そしていつアイロンがけをすればいいのか、教えてほしい。


 ――などとは口が裂けても言えない。


 なんだかんだと言っても、大手電機メーカーに勤めている夫が稼いできてくれるからこそ成り立っている生活だし、自分のパート代が子どもたちの塾や習い事代くらいにしかなっていないことはわかっている。


 でもあんなふうに言われると、悲しいし、悔しい。

 私だってせいいっぱい頑張っているんだ、と叫びたくなる。


 朝早くから弁当を作り、家事をこなし、家族にがみがみ言われ、残り物の朝食を食べてこうしてパートに向かう。帰宅しても休む暇などありはしない。当然、自分の好きなことをする時間も皆無だ。

 それなのに、家族から褒めてもらったり感謝されたりすることは一切ない。


 言われるのは、それぞれの雑用と文句だけ。


 こんな生活がいつまで続くのかな――と暗い気持ちでふと駅前の時計を見れば遅刻ぎりぎりになっていて、香織はあわててペダルを懸命にこいだ。




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