1章 入学
魔法大学からの合否通知
魔法大学ホムスレンからの使い鴉が飛んできたのは、まだアーデルヘルン領らしい雨の匂いが残る、ひやりと肌寒い節だった。
****
扉を叩く音と殆ど同時に慌ただしく部屋に入ってきたのは、侍女のニメラだった。
「坊っちゃま、ご当主様がお呼びです」
「ニメラ、僕は昨晩…遅くまで実験してたんだよ」
“起こしてくれるな”という気持ちを込めてくぐもった声で答えると、ニメラが苦笑した気配がした。
「坊っちゃま、わたくしは昨晩お止めしたではありませんか。
お身体の成長の時期ですのに、しっかりお眠りにならねば後々に響きますよと」
堰を切ったように始まったいつもの小言に、手をひらひらと払って応じる。
「書簡が届いたそうなのです。お早くご準備くださいませ。
もうお嬢様はしっかりと準備を終えられていますよ」
ソフィーリスが準備を終えているということは、ニメラは僕をぎりぎりまで寝かせてくれたのだろう。
動かない僕に痺れを切らして毛布を剥ぎ取ったニメラに、恨みつらみをぶつけながら体を起こす。
「全く、坊っちゃまはいつから寝起きがそんなに悪くなられたのやら。これくらいの頃は、日が昇るとまるで花の妖精のように微笑んでらっしゃったのに」
自分の膝辺りを手で示しながら、呆れたように首を横に振るニメラを軽く一睨みして立ち上がる。
「その話が毎朝の目覚まし代わりだよ」
まだ歩くことすらできなかった頃から世話をしてもらっている、つまり乳母でもある彼女と接する時間は、取り繕う必要のない数少ない気楽な時間だ。
慣れた手つきで僕の後ろ髪を櫛で梳くニメラに軽口を叩きながら、手早く印を結んでぼそぼそと清めの言葉を口にする。
『水 清める 全身』
足先から頭のてっぺんにかけてぶわり、と冷たい波が駆け昇るような感覚が走っていく。口元を通っていくときに一瞬息が出来なくなるけれど、僕はこの感覚が結構好きだった。
「坊っちゃまの“言葉”はいつも簡潔ですね」
「簡単な魔法で形式張る必要なんてないさ」
言葉と共に口から少量の霧煙が漏れ出る。
魔力の余韻だ。
ゆるく編み込んだ後ろ髪を結び紐で留め終えたニメラが、正面から僕の身なりを確認して微笑んだ。
「坊っちゃまだからそう仰ることが出来るのですよ」
丸いメガネの奥で優しげな緑の瞳が細められていて、なんだかむず痒い気持ちになる。
古い言葉の方が持つ影響力も効力も強く、形式ばった言葉の羅列はその人物の品格を表す。首都の
僕は生活で使う程度の魔法に形式ばった言葉で呪文を唱えるのは効率的じゃないと思うのだが、流石に人前でも行う訳じゃない。余程のずぼらか、矜持のないツェリだと思われるからだ。
これから父の元へ向かうことを思い出して気が重くなる。書簡とは一体何のことだろう。
「こんな早朝から一体父上はどういったご用なのだ?」
窓の外は立ち込める霧で白く包まれているが、漏れ出る冷気と静けさが、まだこの時が太陽の支配下ではないことを示していた。
「……“あれ”ですよ坊っちゃま。本当にお忘れですか?」
手際よく背中でボタンを留めていたニメラが、驚いたように手を止めて言葉を続ける。
「魔法大学からの使い鴉ですよ」
その言葉を聞いた瞬間僕は文字通り固まった。
昨日までの連日、自室の研究室に篭りきりですっかりと忘れていた。
「ああああああああああああ」
いきなり絶叫した僕に驚いた様子もなく「お気を確かに」と言って僕の襟を正すニメラ。
そもそも僕が水晶が保有する知識の引き出し、なんていう泥沼のような実験に浸かり込んでいたのは、魔法大学ホムスレンの合否通知から逃避するためだった。
由緒正しき栄えあるアーデルヘルン家の長子として、首都を司る魔法大学都市であり、同じ名前を冠する魔法大学ホムスレンへ入学することは当たり前であり、資質不足の烙印を押されるなんてことはあってはならない……のだが。
父上にどう申し開きをしようか、と考えていたのは試練からとんぼ返りしてほんの数日間だけだった。いつもの悪い癖で、研究にのめり込んで日が経つのを数え忘れていたのだった。
父上の書斎に向かうべく、離れ難い自室の扉を俯いたまま重々しく開けると、ふっくらとした胸の曲線に沿って流れる艶やかな白銀の髪が目に飛び込んできた。
「あっ。丁度伺おうと思っていたの。おはようジェレミー」
扉を叩く寸前だったのだろう、ぶつかりかけて驚いた様子の双子の妹を避けて挨拶を返す。
「おはようソフィー」
ソフィーリスは同年代の女性と比べても背が高い。研究室に篭っていた内に少し雰囲気が変わった気がするな、と見下ろしながら首を傾げる。残念ながら何が変わったのか、僕程度の男には分からないので考えるのをすぐにやめた。
「ジェレミー、あの」
ソフィーリスが何か言い淀んでから、言い辛そうに続けた。
「お父様ならきっと大丈夫よ。……私もついているし」
あの父上が、失格の烙印を押された僕を許すとは思えない。
寡黙で厳格な父の鋭い視線が、小さい頃から大の苦手だった。何を考えているのか分からない上に、口を開くと出てくるのは身を切るように冷たい印象を与える言葉ばかりなのだ。
「そうだな。ありがとうソフィー」
僕は答えに困って、ただ慰めようとしてくれる双子の妹にそう答えた。
きっとここで気のない返事をしてしまえば、あの場にいたソフィーリスは自責の念に駆られるだろう。安心させるように金色の視線を絡めて微笑むと、ソフィーリスから安堵の吐息が漏れた。
「兄様はいつも……」
ソフィーリスが微かに聞こえる声で何かを呟いたが、よく聞き取れなかった。彼女が僕を兄様と呼ぶのは、嗜めるときや頼み事をするときくらいなので触れないでおこう。
何故か恥じらった様子で足速に先を進むソフィーリスに、離されないように歩みの速度を上げる。
明るい銀髪がさらさらと一定のリズムで揺れる後ろ姿を眺めながら、自分がしでかした事を思い出してずしりと胸が沈んだ。何度か深い呼吸を繰り返して顔を上げる。
あんなことが起こったのだから、合格になんてなるわけがないのだ。
湯気が立ち昇っていると錯覚するような、監督官の真っ赤になった顔が脳裏に過ぎって、深いため息が宙を漂った。
ジェレマイア奮闘記 森メメ @morimeme
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